代表理事 平成29年4月のごあいさつ
このたび教科書における「聖徳太子」記述の問題で、なんとか「厩戸王」というのから「聖徳太子」になりました。そのこと自体は我々にとって良かったことなんですけれども、教科書業界も全体的には非常にある意味で左翼化していますから、あそこだけを「聖徳太子」としたとしても、その後がやはり問題であるわけです。
歴史観全体がおかしいところを、ああいう風に個々の事例だけを取り上げて、これが証明されていないとか、これ自体がおかしいんだというようなことが問題となってます。それ以外にも源頼朝の肖像画がどうだとか、それから元寇をどういう風に解釈するか、あるいは「鎖国」をどう定義するか等―――そういう話ではなく、従来の教科書がどういう歴史的立場から書かれているかということをしっかり突かないと、たとえ「聖徳太子」の記述になったとしても、全体がとしてどういう風に解釈するかということを主張してゆかないと非常に危ういのです。つまり、「聖徳太子」という表現を含めてすべて仏教から来た、すなわち中国の影響だということで、結局日本が中国や朝鮮の文化圏にあるという発想が根底にあるわけです。全体的な歴史観の運動にしてゆかないと、全体が変わってこないのです。
「明治維新」の問題もそうですし、あらゆる問題が階級闘争史観、常に権力争いというところだけが政治史であると。そして日本の文化という問題が全く抜けるか、あるいは添え物に過ぎないといった、上部構造―下部構造という、ある意味でマルクス主義の根幹的な見方はそのまま変わっていません。これでは、たとえば天皇についての解釈も危ういわけです。
この歴史学界というところがある種の狭い空間の中で、学者たちだけが蠢いて、これまでの70年の長い戦後史観というものの上に立ってやっていますから、意外に我々の世間的常識というものがない人たちが集まっていることになるわけです。ですからそういう人たちの、それぞれが「これは定説である」というような事を言って、あたかも自分の歴史観こそが正当であるかのように言っているということがありますから、先程の話も単なる個々の問題ではないのです。南京大虐殺とか従軍慰安婦を書かないとか、そういう個別イシューの問題ではなくて、歴史観全体の問題であります。ですから歴史を全体としてどう見るかというところから始めなくてはいけない、我々が学会を起ち上げた理由もそこにあります。
我々が「日本史観」を確立すべきなのと同時に、たとえば今「グローバリゼーション」というものをある意味で否定せざるをえないという状況になっています。そういうことで、ある意味で左翼的な、あるいは社会主義を目指すような歴史観というものがすでに退廃している、崩落しているということがあると、果たして一体我々はどういったものをこれから歴史観として持っていくか。左翼はそういうことにすぐ飛びついてきて、「戦前と違って、戦後は・・・」みたな話になるわけですが、しかしそれでも今もちゃんと天皇がおられる。それを守っているわけで、そういうところから新しい我々の歴史観を作ってゆかなくてはいけない。それを個々の歴史研究の中に対応させてゆくという、そういうことが今やはり必要なんです。
つまり歴史教科書の運動もそういう問題が非常に深くあるわけで、そのことをこれから大いに議論していきたいと思うのですけれども、まずは聖徳太子あるいは天皇の存在ということを厚い歴史の中で捉えることで、それが世界史の中での非常に重要な日本の役割の一つと見なされるようになるだろうと思います。それは同時に、日本の「自然」というものに対する考え方、つまり科学を包含したところの「自然道」と言ってもいいんですけれども、神道が内包している自然信仰というものが、やはり普遍的になりうる。科学というものを取り込むことも可能である。ですから我々の近代化の過程で、少なくとも現代においていろんな面で世界の先端に行っているのは、そういう神道のおかげではないかとさえ言えると思います。そのあたりの問題も、我々が研究していくべきだろうと思います。
平成29年4月8日収録分 当会代表理事/東北大学名誉教授 田中英道