代表理事 平成29年8月のごあいさつ

 安倍内閣が新しい顔ぶれになりましたが、マスコミが加計学園とか様々な報道、日報問題を追求し、防衛大臣が辞職したりして、だいぶ人気が落ちたように操作されました。追い込まれて、内閣改造をした、という感じにもなりました。ただ興味を引いたのは、マスコミがあれだけ叩いたわけですけれども、そのマスコミの主張を政治的に裏付けるはずの民進党をはじめとする野党勢力がさらに退潮してしまったことです。民進党がさらに分裂し、党首も辞し、新た選挙をやらなければならなくなりました。

 つまりマスコミというのが孤立し始めている、このマスコミ自体が批判政党になってしまっているという点です。肝心の左翼・政治的勢力が全く壊滅していくという、不思議な状態があるのです。このことは、実はアメリカでもそうですし、西洋でもそうです。つまり各国、マスコミだけが突出し始めて、勝手な報道をし始めている。それで叩いては国民の世論が支持していないとか、国民が批判しているようなことをどんどん述べています。操作できる世論調査を絶対のように掲げて、政権支持率が低い低いと言っている。しかし肝心のそれを支持する革新政党が、あるいはそれを理論的に裏付ける政党がほとんど支持されていなくなっている状況は、これは明らかにマスコミが自分たちだけで作ってるという不思議な状況ができているわけです。

 つまりそういう裏付けになる政治政党がいない。私は「マスコミ党」と言っていますが、これは批判理論だけの政党です。常に批判しろという理論がマルクス主義の代わりに出てきた、戦後的現象で、ロシア革命以降、一度も労働者の革命が生まれないという状況の中で、ターゲットは学生やインテリあるいは文化人だと、そこを徹底的左翼化するという戦術に変わったのです。これこそ、フランクルト学派のやり方です。ところが日本では、左翼が労働者運動から文化運動に転換したという、明らかなことが知られていません。それでいつの間にか、「疎外」されているという被害妄想を与えて、インテリたち、あるいは市民と言う名の人々が、まるで革命の主体のように動き始め、彼らの言論が跋扈し始めました。

 それでマスコミが今、まるでひとつの政党のようにして政府攻撃ばかりやっているという不思議な現象があります。同時に、この批判理論というのはある意味で何でも批判するという原理がありまして、せっかく民主党(民進党)が出てきたのに、それも叩いてもいます。やはり常に権力者・権威者を批判するという理論が、このフランクフルト学派の考え方です。そういうことで、民主党(民進党)だけを誉めるということがないために、民主党(民進党)が育たなくなってしまった。この批判理論は、権力・権威であればだれでも批判するということで、人権思想とかフェミニズムとかカルチュラルスタディーズとか、あらゆる左翼理論の根幹になってしまっている。

 日本の学問研究もそれなんです。だから今はマルクス主義を隠して、ある種の階級闘争や、「格差」なのど言って、社会がいつも悪いんだと言い続ける。そういう理論が学会にもあるわけです。それが非常に問題であるわけで、今の歴史学会だけでなく、人文系の学界が全体的にある意味で衰弱しているのは、そういうある種の袋小路に陥ってしまって、停滞してしまっている。学問が細分化し過ぎてしまって、全体を見ることが出来る人がいなくなってしまいました。

 アメリカのトランプがあれだけ自信をもっているというのは、結局ああいう言い方で、こうしたマスコミ党の左翼的な理論なんか粉砕できると思っているからです。これも実を言うと、新聞等には出てきませんけれども、彼の理論的背景にはブキャナンという人がいる。もちろん、トランプを支えて押し出したのは明らかにキッシンジャーですから、そういう新しいアメリカの論壇とユダヤの動きというものが重なって、〈イスラエル中心主義=アメリカ・ファースト〉という構図になってるわけです。ですから逆に言うと、今は日本にとって非常に有利な状況が来ているということです。日本中心でやっていくということを世界が認めざるをえない状態になっている、ということです。

 各国も本当はそうなんですけども、ヨーロッパが未だ。ついてこないわけです。ヨーロッパの中心的なイデオロギーについては、ジャック・アタリという人がいて、この人がグローバリズムを主張しているために、フランスのマクロン大統領なんかがそれに乗っているわけです。しかしマクロンが不思議なのは、もうすでに軍事のトップ(ドビリエ統合参謀総長)が辞任させてしまい、経済も改良せず、不人気になっています。これは明らかにフランスの不安定さを露呈してきているわけで、このこともあまりマスコミは言いませんが、フランスが今からおかしくなる兆候だろうと思います。ですから世界全体が一国中心主義に変わりつつあるということですから、グローバリゼーション的な国家観あるいは政治観というのはもう衰退していくようになっています。

 今、イマニュエル・ウォーラーステイン——彼自体は「世界システム」のことを言っているユダヤ人マルキストなんですけれども——こういう人でさえも今「不確実性」ということを述べるようになりました。「不確実性」というのは、ガルブレイスが1978年に言った言葉なんですが、本来は「確実に社会主義の向かう」はすの資本主義、帝国主義でなくなった、ということです。マルクス主義者でさえもこういうことを言い始めたということは、当然と言えば当然ですが、一世紀にわたるグランドセオリーの時代が去ったということです。すでに彼も含めて大半の歴史家は一般法則への信憑性を捨てています。代わって私たちは個別的なもの、時として微視的でさえあるもの——イタリアで言うところのミクロストリア——に注目している。それは私たちが一粒の砂に宇宙を見ることができると考えているようになった。最近『応仁の乱』(呉座勇一著、中公新書)という本がよく売れていますが、この本がこの傾向を示しています。マルクス主義を捨てて、はっきり批判していますが、全体を見る目を捨てています。

 私は以前『新しい日本史観の確立』(文芸社)という本を出していますが、これで徹底的に批判しているのは、まずマルクス主義史観です。その指導的な立場にあって『20世紀日本の歴史学』(吉川弘文館)を書いた、永原慶二を徹底的に批判しているわけです。『応仁の乱』も、永原さんを批判していますが、呉座氏のいう視点と、私の視点は違うようです。それはどうもミクロコスモスというか、結局細部から一粒の砂を見るという、そういうトリビアリズム(瑣末主義)に陥る方向に行っている。決して全体像を言っていないし、一体それがどういうことなのかというところを、踏み込もうとしていません。

 郷土史家があらゆる小さな歴史を並べても「歴史」にならない。「この街のことは他の街の人は関心がない」「この村のことは他の村と関係がない」となると、そういうものを全国で集めても何にもならないことになる。ですから、国の歴史をどういう風に、どこの単位で切り取って歴史を作るかということを考慮しなけらばならない。それはやはりそこに統一的な文化、あるいは統一的な言葉があるということ。そういう習慣、地域における政治・文化というものを中心にしてみる。その変化を見る、あるいはそれをマクロな視点から見る。そういうことをしないとトリヴィアリズムになるだろうというのが、私の見解です。そういうことは、これから少しずつやっていきたいというふうに考えているわけです。

 いずれにしても、今の政治状況から日本というものを見直すということはやはり重要であって、その中で、歴史を構築していかねばなりません。これを心ある方々とともに、行っていきたいと思います。

平成29年8月5日:当会代表理事/東北大学名誉教授 田中英道