代表理事 平成28年2月のごあいさつ

 まだ参加者はあまり数多くありませんけれども、日本国史学会の存在そのものが非常に重要であって、やはり歴史認識の問題を保守の側からきちっと言うというということ。それを少数でも学者としてきちっと展開していく。そういうことで東京では毎月の連続講演会が、関西でも毎年2回シンポジウムがあります。これから共同の研究会もしていきたいと思っています。

 それから基本的に我々の学会は、評論家の会ではありませんので、いちいち政治家のごあいさつを批判しあったりすることはありません。例えば今度のいわゆる従軍慰安婦の問題で安倍首相が変に妥協したというようなことを、あれはおかしなことだ、あるいはああいう妥結をしたのが良いというどっちの立場をとるのがいいのかということは、それ自体問題の立て方がおかしいのです。当然、戦後70年のあの問題も保守の側で分裂しておりまして、あれを批判する人と、あれはあれでいいという人と、いろいろあります。メディア等でいちいち取り上げられるということで、政治家のごあいさつというのはやはり、できるだけ批判されないような無難な、あるいは曖昧な言葉を使って、ある時にはそっちの側に有利なこと、ある時にはこっちの側に有利なことをと、綯い交ぜて話す。そういう事を官僚が平気でやってそれを読みますから、いちいち取り立てて言う必要はない。しかしその政治家がどういう風に政治問題に処していくか、特に憲法問題あるいは日本の歴史そのものをどういう風に捉えるかについてきちんと考えることが勿論必要だと思います。 ですから評論家たちは、これまでも間違えるのです。この政治家は良い、なんて言って持ち上げたと思えば、そのあと全然ダメだ、と。例えば、小沢一郎という政治家をある保守系評論家が一度持ち上げて、あとで全然ダメだと言ったことがありましたね。そういうことをやっていますと、評論家はいつも怒ってばかりになる。そういうことをわれわれはやらない、しかし筋が通っていればいいという事ですね。その状況をどういう風に掴んでいくかということが、その政治家の行動によってはっきり出ているということが大事である。その点において安倍首相は非常にまだまだ我々の政治家であるということを私は信じています。

 それから我々は文化というか、いわゆる歴史認識を、階級闘争史観あるいはマルクス主義史観と言ったものではない事で歴史を捉えようとしている。そういう動きをわれわれはしているわけです。そういう意味でも、安倍首相の今度の施政方針演説にもそういうものが含まれていたということ私は認識しております。いずれしても、良い場合はそれを支持し、ちょっとおかしい場合は黙っているか、あるいは非常におかしくなれば批判するという、是々非々主義でいくべきだろうと思います。

 最近非常に重要なのは、ドイツの動きが変わってきたということです。これは皆さんご存じの『我が闘争』、これがやっとドイツで発禁処分が解けてドイツ語で新たに出たということです。それともう一つはハイデッガーの『黒ノート』というのが2年前に発禁処分が解けたということです。ハイデッガーは20世紀最大の哲学者の1人ですけれども、この人以降はドイツから大哲学者が出なくなっちゃったんです。それはどういうことかというと、ハイデッガーがナチを支持したということがあって、戦後それで叩かれたわけです。特に1980年頃からそれがひどかったわけですが、しかしやっとそのことを公にして『黒ノート』が出た。この『黒ノート』で非常に重要な事は、「近代」という言葉、あるいは「世界」と言う言葉をユダヤ人の問題としたわけです。ハイデッガーには“反ユダヤ主義”というレッテルが貼られたわけですけども、この問題を堂々と論じています。ユダヤっていうのは何かというと、世界を描いていること。つまりマルクスもユダヤ人ですし、資本主義も国際ユダヤ人組織だということを平気で言うわけです。知識人がこういう言葉を、ただの人種差別ではなくて言うところが非常に重要であって、結局「近代」も資本主義もお金の至上主義になったということです。お金というもの、経済至上主義ということも全部ユダヤから来ているということをはっきり述べているわけです。ところが、この国際ユダヤ人組織というのが何かということは言わない。言わないというよりも、言えないようにしているということをはっきり言っている。ですから、そういうユダヤ人のあり方の実態をハイデガーが非常に掴んでいたというのがよくわかる。だから決して彼をナチに加担した哲学者と見るのではなくて、今や世界がユダヤ人の問題を抜きにしては語れないし、シオニズムを攻撃しているわけです。

 軍国主義という言葉がいかに作られたか、それから歴史書で天皇を語らないという状況がいかに作られたかということ。そういうユダヤ人が作った戦後日本の一つの言語構造というのを、今もう一度洗い出して、そしてそれに対抗する言論を展開してゆく。そしてそれについては、実はユダヤ人ももう許している。『我が闘争』や『黒ノート』の解禁も、皆それを示しているんです。

 ですから、いわゆるGHQ禁書の開封というのもある意味同じことです。これも、世界的にユダヤ人が許したということなのです。ハイデッガーがちゃんと言っている国際ユダヤ人組織という問題があるという事は、しかしはっきりと誰それとか認識できないような構造になっているわけです。そういう事は、実を言うとローマ時代からあったということを私も解明しつつあるわけです。私は今、ローマで仏教美術展をやるために時々ローマに行っているのですが、ローマで調査しているのもそういうことです。ですからマクニールの世界史とかアメリカ人が書く世界史、あるいは各歴史がある意味全部色メガネで見られていて、そういうことを全部隠している歴史なのではということを我々は認識しなきゃいけない。ですからマルクスもまた、同じようにユダヤ人の見方で書いているわけです。そういうことが今、徐々にわかってきているということです。

 ですから日本の歴史を書き換えるのも、そういう立場で書き換える必要がある。ですから単に保守だからといって戦前に帰れとか天皇主義に戻れ、みたいなことだけではなくて、そういうことも検討しなくちゃいけない。やはり「近代」というものが、作り物であったということ。個人主義だ、自由だ、平等だという言葉がいかに彼らによって作られて、皆さんが信じさせられたかという問題――こういう事を再検証する必要があるだろうと思います。

 そういうことで、ハイデッガーの『黒ノート』の解禁は私にとっては事件であるし、それを考察することが非常に重要であることだろうと思います。それは日本の問題でもあります。ハイデッガーはギリシャの問題だと言っていますけども、我々にとっては『古事記』や『日本書紀』あるいは縄文弥生の問題をどういう風に理解するかという事にかかっているだろと思います。

 今月初めまで外務省の出張で、ローマに行って来ました。今年の八月にキルナーレ宮美術館で開催される日本仏教彫刻展のためで、白鳳時代から鎌倉時代までの四十点ほどの国宝、重要文化財の彫刻が展覧されることになっています。流石に最高傑作は保存の関係で行きませんが、各地のかなりの美術作品が、ミケランジェロやドナテルロの国、イタリアで初めて展示されるのです。文化庁も予算のないところ、安倍首相がレンツイ首相に日伊修好百五十周年のために特別の予算をつけて下さり、開催する運びとなりました。嬉しい事です。

 日本国史学会のそのものが、マルクス主義の闘争史観を否定して、伝統と文化を重んじる歴史観を標榜していますので、そのためにもこうした文化的国際行事は大きな刺激となると思います。国際的に日本の伝統文化が評価される起因となるでしょう。

 安倍首相が新年の施政方針演説で、日本の文化と芸術の世界への発信を称えておりました。文化の高い日本を評価する歴史観を、政治に反映させようとするわれわれの努力がそこに反映していると考えます。首相の友人である俳優の津川雅彦さんが産経新聞のインタビューに、安倍内閣の文化外交を述べ、このローマの仏教美術展が皮切りだと述べていました。実を言うと、それはわれわれの主張してきた事だったのです。津川氏は私の友人でもあり、本学会の理事の竹田先生の知己でもあります。

 日本国史学会にとって、むろん日本の近現代史も重要で、その新たな資料を発掘しながら、歴史の解釈を変えてゆくのも我々の使命です。しかし基本的に学会は、評論家の会ではありませんので、いちいち政治家のごあいさつを批判したりすることは必要ありません。例えば今度のいわゆる従軍慰安婦の問題で、安倍首相が韓国と変に妥協したことを批判する向きもあります。あれはアメリカの差し金だ、おかしなことだ、という評論家がいますが、政治とはそんなものです。いちいち目くじらを立てる必要はありません。韓国が誤って、中国ににじり寄ったことへの批判が高まったからです。

 戦後七十年を記念したあの「安倍談話」の理解も保守の側で分裂しております。批判する人と、あれはあれでいいという人と、いろいろあります。しかしメディア等から、いちいち問われるために、すぐさま態度を取らなければならない評論家と、我々は異なるのです。時の政治家のごあいさつというのはやはり、できるだけ野党に批判されないような無難な、あるいは曖昧な言葉を使って、ある時にはそっちの側に有利なこと、ある時にはこっちの側に有利なことをと、綯い交ぜて話す。そういう事を官僚が書いてそれを読みますから、いちいち取り立てて言うに値しないのです。問題はその政治家の原則的な態度です。安倍首相は教育基本法を改正し、憲法を変えようとしています。そして「戦後レジームの脱却」を掲げ、靖國神社にも参拝しました。村山談話や河野談話を否定してないのは残念ですが、それでも野党と一緒になって批判する必要はありません。

 ですから評論家たちは、これまでも間違えてきたのです。この政治家は良い、と持ち上げたと思えば、そのあと全然ダメだ、という。例えば、小沢一郎という政治家をある保守系評論家が持ち上げて、あとで全然ダメだと言う。もともと駄目なのです。田中真紀子についてさえ、そんなことを言っていた評論家がいた。そういうことをやっていますと、評論家は不信感を持たれます。そんなことはわれわれはやらない、妥協も政治家にとってはひとつの選択です。私たち歴史家は、どこか裏がある、と考えます。その裏を察知しながら、その政治家を判断しなければならない。 その点において安倍首相は政治家としてよくやっている、と私は考えています。

 最近私が注目した事に、ドイツで、ヒットラーの『我が闘争』が、やっとドイツで発禁処分が解けて新たに出版されたということがあります。たちまちベストセラーになったと言いますが、もっともなことです。それともう一つはハイデッガーの『黒ノート』というのが発表されたことに注目しました。

 ハイデガーはご存じのように、 二十世紀最大の哲学者の一人で、この人以後は、ドイツから大哲学者が出なくなったと言っても良いでしょう。ハイデガーがナチを支持したということがあって、戦後それで叩かれたわけです。それでこの『黒ノート』を出さなかったと言います。しかしやっとそれが出版されたのです。

 この『黒ノート』で重要な事は、ユダヤ人問題が「近代」の「裏」にあることをはっきり述べていることです。彼ら「世界ユダヤ人組織」 がそれをイデオロギーとしてつくり、経済一辺倒の世界を形成した、というのです。彼らはその思考に「世界を欠いている」と言います。彼らはディアスポラ(逃散)ですから当然そういう発想になる。つまり根源を欠いている。そして近代の「計算的思考」しかないと言うことです。そこに「破壊の原理」を持っている、と。ハイデガーには「反ユダヤ主義」というレッテルが貼られたわけですけども、この問題は決してユダヤ人への偏見や憎悪とは関係がない。かれらの歴史的な背景からの性格を哲学的に捉えているのです。これはユダヤ人でさえも認めざるを得ないでしょう。

 ただ、この「世界ユダヤ人組織」というのが何かということは言わない。言えないと言ってよいでしょう。しかし「近代性」とやらは、 ユダヤ人の問題を抜きにしては語れないことを言っているのです。マルクスもまた、同じようにユダヤ人の見方で「世界を欠いた」ディアスポラの態度で 書いていたわけです。そういうことがハイデガーの『黒ノート』でわかってきた、’ということです。逆にユダヤ人思想家、アドルノは、ドイツ人ハイデガーの「根源性」を、ナチズム=ファッシズムとして論難していたのです。 ですから日本の歴史を書き換えるのも、そういう近現代史の裏にある組織があって、それが左右してきたことを指摘しながら、行わなければなりません。ただアメリカがやった、アメリカに従属している、などと簡単に言ってはいけません。この「世界ユダヤ人組織」が隠然として作用しているのです。やはり「近代」というものが、作り物であったということ。個人主義だ、自由だ、平等だ、民主主義だ、という言葉がいかに彼らによって作られて、皆さんが信じさせられたかという問題――こういう事を再検証する必要があるだろうと思います。

 ハイデッガーの『黒ノート』の解禁は、日本の問題でもあります。ひたすら「近代性」を夢見てきた日本。そこには「破壊の原理」が裏にある。ハイデッガーが「根源」をギリシャにおいているように、日本は『古事記』『日本書紀』の縄文・弥生・古墳時代に遡らなければならない。我々にとっては戦後否定されたそうした遠い過去からの呼び声を、もう一度、多くの考古学的な発見を考慮しながら、その歴史を回復させなければなりません

平成28年2月6日  当会代表理事/東北大学名誉教授 田中英道