代表理事 平成29年9月のごあいさつ

国史連続講座 2017年9月2日収録分代表挨拶

 学問というのは基本的に、常にその学者が生きている時代の考え方・発想から始まって、そしてそれが過去あるいは地方、時代ごとのさまざまな問題に及びます。しかし常に現代の生きているところで考えるというところしかあり得ないのです。というのは、人間それぞれに限界というのがありまして、現在を生きているということで初めて歴史についての問題意識が出てくるわけです。そういう意味では、今日非常に面白い時代になってきたと言えます。マルクス主義のグランド・テオリーが疑われてきたからです。

 最近、新聞や雑誌で保守論壇人とされる方々が安倍晋三首相に対する批判を始めたということが週刊誌に載っています。西尾幹二氏、中西輝政氏などがその例です。共に存じ上げているだけに、気になることですので、少し述べておきたいと思います。

 私は1970年代に『季刊芸術』で長く一緒に著作活動をした江藤淳氏が、1980年頃から、「戦後の言論の閉鎖空間」について指摘され、大きな問題提起をされました。戦後保守の理論的な立ち上げと言っていいでしょう。氏はそれ以後いろいろな意味で政治的な問題に発言しました。お亡くなりにならなければ、教科書問題にも関われたと思います。政治家にも関心を持たれて、小沢一郎氏についての論で「水沢に帰りたまえ」ということを書いたことを記憶しています。私は国連主義の小沢氏に疑問をもっていましたが、しかしなぜ江藤氏が肩入れされるか、わかりませんでした。氏のような評論家・思想家が現在の政治家を論ずるというのはある意味非常で危険だと思いました。

 「危険だ」ということは触れてはいけないということはなく、大いにやるべきですが、政治と思想を同等に見てはいけないということです。思想家というのは思想家として摂理と言いますか、一貫性というのがありますけれども、政治家というのは基本的に極めて政治的な状況にコミットをして、社会的な状況において発言し行動していますから、そこに左右され過ぎるのです。ですからある時にその政治家が光っていても、必ずその状況の範囲での話をすることになるわけです。ですから、その一貫性とか、思想性を、問題にしてはいけないことを、評論家や思想家は、認識してあげねばなりません。むきにならず距離をおいて、いい面を評価してあげればいいのです。

 現在、問題はトランプ大統領という存在ですが、彼の出現によって、世の中が変わりつつあります。私はこの度『日本人にリベラリズムは必要ない』(KKベストセラーズ)という本を書きましたが、その中でも、この大統領の行動と言論に着目しています。西尾氏も中西氏もこの大統領をお嫌いのようですが、私は距離をおいて、支持しています。これまでのクリントン的な、あるいは民主党的なリベラルの方が、何となくインテリめいて、粗野なトランプ氏が損をしている。トランプは、なんだかガサツな感じばかりがテレビに出てきますが、少なくとも左翼的な冷たさはありません。それで非常に評判が悪いのですが、実を言うと、マスコミがぐるになって、攻撃しているだけであって、かれら「マスコミ党」(前月あいさつ参照)こそが、すでに思想的根拠を失っているのです。とにかく何でも問題にして、批判している。ハリケーンの視察に、夫人がハイヒールを履いてきた、といったらそれを批判する。なんでも批判する。

 これは何かというと、私が始終言っている戦後の左翼の陥った思想現象で、フランクルト学派の批判理論の立場が、流布してしまったのです。批判「理論」というと本当に正しいように聞こえますけれども、「理論」ではないのです。すべてを批判することによって変革せよ、というだけで、何の展望もなくていいのです。これまでのマルクス主義の労働者運動ではない知識人の運動として使われた理論なのです。戦後ずっとそれが指導的な影響力をもってしまって、大体、大学の先生たち、学生たちに大きな影響を与えました。大学から出た、官僚、マスコミ人などを全部左翼にしてしまうことを目指した理論なのです。マルクスとフロイトをもってきているので、それが魅力に見えたのです。

 たとえば最近500万部も売れたという『サピエンス全史』、この本はその傾向の強い本です。著者のユヴァル・ノア・ハラリ氏はイスラエル人の若い歴史学者です。オックスフォード大学で中世史、軍事史を学んで、現在、ヘブライ大学で教えています。問題は、イスラエルという国そのものがシオニズム運動で戦後できた国ですから、これはまったく人工的な国家です。この著者の歴史観はそれを反映しているのです。彼の歴史理論は、人間・サピエンスは、言語認識にたけ、それによるさまざまな虚構を信じて生きてきた、というのです。イスラエルという国を戦後つくり、「ここがユダヤ人の国のはずだ」という虚構を実現させてしまった。ユダヤ人たちの作ったひとつの虚構なのです。

 歴史は人々に認知革命を引き起こすことによって、人々が共通の虚構をもつことにより、歴史が作り上げられてきた、と語るのです。それがサピエンスの特色だ、いうことがこの本の基本になっているわけです。しかし一体それは本当でしょうか。一神教が、絶対神を虚構でつくることによって、人々を信じ込ませる。キリスト教徒が1%と言われる日本人は、それに引っかからなかったことになあります。そういう意味では彼らの歴史とは逆なのです。日本人は自然思想というか、自然を基本にしますから——私は「自然道」あるいは「大和ごころ」と言っていますが——そういうものだと、人間が虚構や観念で行きるのではなく、自然にそうなっていく、ということを重視するわけです。それが「自然(しぜん/じねん)」という言葉、「みずからしかり」という言葉を好むあり方に通じているわけです。「神が『光あれ』と言うと光があった」という旧約聖書の最初の言葉よりも、太陽の光を、最初かから存在する自然なものとして受け入れ、感謝し崇拝するのです。マルクス主義の発想も同じで、共産主義は、理論的に実現するはずだ、というので、やってみるわけです。それが見事に失敗しました。イエスもマルクスもユダヤ人です。どっちもユダヤ人的思考です。宗教をつくり、宗教を否定するのも、同じユダヤ人であるのです。こうした思考が、『サピエンス全史』に一貫してあるわけです。

 それは日本人にとっては珍しいし、日本的思考とは合わないものですから、逆に言うと、それを重んじてしまう知識人が多い。それで500万部?も売れたのでしょう。日本にはこれと反対の歴史があるんだということを日本が示せるし、本来は各国の人たちも同じように反論できるわけです。人間にとって言葉にはない実態、現実があり、それは言葉よりも大事なことなのです。西洋人の発想だと思っていたことが、実をいえば、ユダヤ人の発想だったということを日本人は知らなくてはならないのです。この本の歴史観はユダヤ人的なものだと、強く認識しないと、この本の本質は分かりません。しかし、これがそれだけ売れて、支持されているとすれば、私たちはそれを徹底的に批判する必要があります。『日本国史学』次号の書評にも載せますから、詳しくはそれを読んでいただきたいと思います。

平成29年9月2日収録分 当会代表理事/東北大学名誉教授 田中英道