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代表理事 今月のごあいさつ

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代表理事 平成29年9月のごあいさつ

国史連続講座 2017年9月2日収録分代表挨拶


 学問というのは基本的に、常にその学者が生きている時代の考え方・発想から始まって、そしてそれが過去あるいは地方、時代ごとのさまざまな問題に及びます。しかし常に現代の生きているところで考えるというところしかあり得ないのです。というのは、人間それぞれに限界というのがありまして、現在を生きているということで初めて歴史についての問題意識が出てくるわけです。そういう意味では、今日非常に面白い時代になってきたと言えます。マルクス主義のグランド・テオリーが疑われてきたからです。
 最近、新聞や雑誌で保守論壇人とされる方々が安倍晋三首相に対する批判を始めたということが週刊誌に載っています。西尾幹二氏、中西輝政氏などがその例です。共に存じ上げているだけに、気になることですので、少し述べておきたいと思います。
 私は1970年代に『季刊芸術』で長く一緒に著作活動をした江藤淳氏が、1980年頃から、「戦後の言論の閉鎖空間」について指摘され、大きな問題提起をされました。戦後保守の理論的な立ち上げと言っていいでしょう。氏はそれ以後いろいろな意味で政治的な問題に発言しました。お亡くなりにならなければ、教科書問題にも関われたと思います。政治家にも関心を持たれて、小沢一郎氏についての論で「水沢に帰りたまえ」ということを書いたことを記憶しています。私は国連主義の小沢氏に疑問をもっていましたが、しかしなぜ江藤氏が肩入れされるか、わかりませんでした。氏のような評論家・思想家が現在の政治家を論ずるというのはある意味非常で危険だと思いました。
 「危険だ」ということは触れてはいけないということはなく、大いにやるべきですが、政治と思想を同等に見てはいけないということです。思想家というのは思想家として摂理と言いますか、一貫性というのがありますけれども、政治家というのは基本的に極めて政治的な状況にコミットをして、社会的な状況において発言し行動していますから、そこに左右され過ぎるのです。ですからある時にその政治家が光っていても、必ずその状況の範囲での話をすることになるわけです。ですから、その一貫性とか、思想性を、問題にしてはいけないことを、評論家や思想家は、認識してあげねばなりません。むきにならず距離をおいて、いい面を評価してあげればいいのです。
 現在、問題はトランプ大統領という存在ですが、彼の出現によって、世の中が変わりつつあります。私はこの度『日本人にリベラリズムは必要ない』(KKベストセラーズ)という本を書きましたが、その中でも、この大統領の行動と言論に着目しています。西尾氏も中西氏もこの大統領をお嫌いのようですが、私は距離をおいて、支持しています。これまでのクリントン的な、あるいは民主党的なリベラルの方が、何となくインテリめいて、粗野なトランプ氏が損をしている。トランプは、なんだかガサツな感じばかりがテレビに出てきますが、少なくとも左翼的な冷たさはありません。それで非常に評判が悪いのですが、実を言うと、マスコミがぐるになって、攻撃しているだけであって、かれら「マスコミ党」(前月あいさつ参照)こそが、すでに思想的根拠を失っているのです。とにかく何でも問題にして、批判している。ハリケーンの視察に、夫人がハイヒールを履いてきた、といったらそれを批判する。なんでも批判する。
 これは何かというと、私が始終言っている戦後の左翼の陥った思想現象で、フランクルト学派の批判理論の立場が、流布してしまったのです。批判「理論」というと本当に正しいように聞こえますけれども、「理論」ではないのです。すべてを批判することによって変革せよ、というだけで、何の展望もなくていいのです。これまでのマルクス主義の労働者運動ではない知識人の運動として使われた理論なのです。戦後ずっとそれが指導的な影響力をもってしまって、大体、大学の先生たち、学生たちに大きな影響を与えました。大学から出た、官僚、マスコミ人などを全部左翼にしてしまうことを目指した理論なのです。マルクスとフロイトをもってきているので、それが魅力に見えたのです。
 たとえば最近500万部も売れたという『サピエンス全史』、この本はその傾向の強い本です。著者のユヴァル・ノア・ハラリ氏はイスラエル人の若い歴史学者です。オックスフォード大学で中世史、軍事史を学んで、現在、ヘブライ大学で教えています。問題は、イスラエルという国そのものがシオニズム運動で戦後できた国ですから、これはまったく人工的な国家です。この著者の歴史観はそれを反映しているのです。彼の歴史理論は、人間・サピエンスは、言語認識にたけ、それによるさまざまな虚構を信じて生きてきた、というのです。イスラエルという国を戦後つくり、「ここがユダヤ人の国のはずだ」という虚構を実現させてしまった。ユダヤ人たちの作ったひとつの虚構なのです。
 歴史は人々に認知革命を引き起こすことによって、人々が共通の虚構をもつことにより、歴史が作り上げられてきた、と語るのです。それがサピエンスの特色だ、いうことがこの本の基本になっているわけです。しかし一体それは本当でしょうか。一神教が、絶対神を虚構でつくることによって、人々を信じ込ませる。キリスト教徒が1%と言われる日本人は、それに引っかからなかったことになあります。そういう意味では彼らの歴史とは逆なのです。日本人は自然思想というか、自然を基本にしますから——私は「自然道」あるいは「大和ごころ」と言っていますが——そういうものだと、人間が虚構や観念で行きるのではなく、自然にそうなっていく、ということを重視するわけです。それが「自然(しぜん/じねん)」という言葉、「みずからしかり」という言葉を好むあり方に通じているわけです。「神が『光あれ』と言うと光があった」という旧約聖書の最初の言葉よりも、太陽の光を、最初かから存在する自然なものとして受け入れ、感謝し崇拝するのです。マルクス主義の発想も同じで、共産主義は、理論的に実現するはずだ、というので、やってみるわけです。それが見事に失敗しました。イエスもマルクスもユダヤ人です。どっちもユダヤ人的思考です。宗教をつくり、宗教を否定するのも、同じユダヤ人であるのです。こうした思考が、『サピエンス全史』に一貫してあるわけです。
 それは日本人にとっては珍しいし、日本的思考とは合わないものですから、逆に言うと、それを重んじてしまう知識人が多い。それで500万部?も売れたのでしょう。日本にはこれと反対の歴史があるんだということを日本が示せるし、本来は各国の人たちも同じように反論できるわけです。人間にとって言葉にはない実態、現実があり、それは言葉よりも大事なことなのです。西洋人の発想だと思っていたことが、実をいえば、ユダヤ人の発想だったということを日本人は知らなくてはならないのです。この本の歴史観はユダヤ人的なものだと、強く認識しないと、この本の本質は分かりません。しかし、これがそれだけ売れて、支持されているとすれば、私たちはそれを徹底的に批判する必要があります。『日本国史学』次号の書評にも載せますから、詳しくはそれを読んでいただきたいと思います。

 

平成29年9月2日収録分 当会代表理事/東北大学名誉教授 田中英道

 


代表理事 平成29年8月のごあいさつ

 安倍内閣が新しい顔ぶれになりましたが、マスコミが加計学園とか様々な報道、日報問題を追求し、防衛大臣が辞職したりして、だいぶ人気が落ちたように操作されました。追い込まれて、内閣改造をした、という感じにもなりました。ただ興味を引いたのは、マスコミがあれだけ叩いたわけですけれども、そのマスコミの主張を政治的に裏付けるはずの民進党をはじめとする野党勢力がさらに退潮してしまったことです。民進党がさらに分裂し、党首も辞し、新た選挙をやらなければならなくなりました。

 つまりマスコミというのが孤立し始めている、このマスコミ自体が批判政党になってしまっているという点です。肝心の左翼・政治的勢力が全く壊滅していくという、不思議な状態があるのです。このことは、実はアメリカでもそうですし、西洋でもそうです。つまり各国、マスコミだけが突出し始めて、勝手な報道をし始めている。それで叩いては国民の世論が支持していないとか、国民が批判しているようなことをどんどん述べています。操作できる世論調査を絶対のように掲げて、政権支持率が低い低いと言っている。しかし肝心のそれを支持する革新政党が、あるいはそれを理論的に裏付ける政党がほとんど支持されていなくなっている状況は、これは明らかにマスコミが自分たちだけで作ってるという不思議な状況ができているわけです。

 つまりそういう裏付けになる政治政党がいない。私は「マスコミ党」と言っていますが、これは批判理論だけの政党です。常に批判しろという理論がマルクス主義の代わりに出てきた、戦後的現象で、ロシア革命以降、一度も労働者の革命が生まれないという状況の中で、ターゲットは学生やインテリあるいは文化人だと、そこを徹底的左翼化するという戦術に変わったのです。これこそ、フランクルト学派のやり方です。ところが日本では、左翼が労働者運動から文化運動に転換したという、明らかなことが知られていません。それでいつの間にか、「疎外」されているという被害妄想を与えて、インテリたち、あるいは市民と言う名の人々が、まるで革命の主体のように動き始め、彼らの言論が跋扈し始めました。

 それでマスコミが今、まるでひとつの政党のようにして政府攻撃ばかりやっているという不思議な現象があります。同時に、この批判理論というのはある意味で何でも批判するという原理がありまして、せっかく民主党(民進党)が出てきたのに、それも叩いてもいます。やはり常に権力者・権威者を批判するという理論が、このフランクフルト学派の考え方です。そういうことで、民主党(民進党)だけを誉めるということがないために、民主党(民進党)が育たなくなってしまった。この批判理論は、権力・権威であればだれでも批判するということで、人権思想とかフェミニズムとかカルチュラルスタディーズとか、あらゆる左翼理論の根幹になってしまっている。

 日本の学問研究もそれなんです。だから今はマルクス主義を隠して、ある種の階級闘争や、「格差」なのど言って、社会がいつも悪いんだと言い続ける。そういう理論が学会にもあるわけです。それが非常に問題であるわけで、今の歴史学会だけでなく、人文系の学界が全体的にある意味で衰弱しているのは、そういうある種の袋小路に陥ってしまって、停滞してしまっている。学問が細分化し過ぎてしまって、全体を見ることが出来る人がいなくなってしまいました。

 アメリカのトランプがあれだけ自信をもっているというのは、結局ああいう言い方で、こうしたマスコミ党の左翼的な理論なんか粉砕できると思っているからです。これも実を言うと、新聞等には出てきませんけれども、彼の理論的背景にはブキャナンという人がいる。もちろん、トランプを支えて押し出したのは明らかにキッシンジャーですから、そういう新しいアメリカの論壇とユダヤの動きというものが重なって、〈イスラエル中心主義=アメリカ・ファースト〉という構図になってるわけです。ですから逆に言うと、今は日本にとって非常に有利な状況が来ているということです。日本中心でやっていくということを世界が認めざるをえない状態になっている、ということです。

 各国も本当はそうなんですけども、ヨーロッパが未だ。ついてこないわけです。ヨーロッパの中心的なイデオロギーについては、ジャック・アタリという人がいて、この人がグローバリズムを主張しているために、フランスのマクロン大統領なんかがそれに乗っているわけです。しかしマクロンが不思議なのは、もうすでに軍事のトップ(ドビリエ統合参謀総長)が辞任させてしまい、経済も改良せず、不人気になっています。これは明らかにフランスの不安定さを露呈してきているわけで、このこともあまりマスコミは言いませんが、フランスが今からおかしくなる兆候だろうと思います。ですから世界全体が一国中心主義に変わりつつあるということですから、グローバリゼーション的な国家観あるいは政治観というのはもう衰退していくようになっています。

 今、イマニュエル・ウォーラーステイン——彼自体は「世界システム」のことを言っているユダヤ人マルキストなんですけれども——こういう人でさえも今「不確実性」ということを述べるようになりました。「不確実性」というのは、ガルブレイスが1978年に言った言葉なんですが、本来は「確実に社会主義の向かう」はすの資本主義、帝国主義でなくなった、ということです。マルクス主義者でさえもこういうことを言い始めたということは、当然と言えば当然ですが、一世紀にわたるグランドセオリーの時代が去ったということです。すでに彼も含めて大半の歴史家は一般法則への信憑性を捨てています。代わって私たちは個別的なもの、時として微視的でさえあるもの——イタリアで言うところのミクロストリア——に注目している。それは私たちが一粒の砂に宇宙を見ることができると考えているようになった。最近『応仁の乱』(呉座勇一著、中公新書)という本がよく売れていますが、この本がこの傾向を示しています。マルクス主義を捨てて、はっきり批判していますが、全体を見る目を捨てています。

 私は以前『新しい日本史観の確立』(文芸社)という本を出していますが、これで徹底的に批判しているのは、まずマルクス主義史観です。その指導的な立場にあって『20世紀日本の歴史学』(吉川弘文館)を書いた、永原慶二を徹底的に批判しているわけです。『応仁の乱』も、永原さんを批判していますが、呉座氏のいう視点と、私の視点は違うようです。それはどうもミクロコスモスというか、結局細部から一粒の砂を見るという、そういうトリビアリズム(瑣末主義)に陥る方向に行っている。決して全体像を言っていないし、一体それがどういうことなのかというところを、踏み込もうとしていません。
 郷土史家があらゆる小さな歴史を並べても「歴史」にならない。「この街のことは他の街の人は関心がない」「この村のことは他の村と関係がない」となると、そういうものを全国で集めても何にもならないことになる。ですから、国の歴史をどういう風に、どこの単位で切り取って歴史を作るかということを考慮しなけらばならない。それはやはりそこに統一的な文化、あるいは統一的な言葉があるということ。そういう習慣、地域における政治・文化というものを中心にしてみる。その変化を見る、あるいはそれをマクロな視点から見る。そういうことをしないとトリヴィアリズムになるだろうというのが、私の見解です。そういうことは、これから少しずつやっていきたいというふうに考えているわけです。
 いずれにしても、今の政治状況から日本というものを見直すということはやはり重要であって、その中で、歴史を構築していかねばなりません。これを心ある方々とともに、行っていきたいと思います。

 

平成29年8月5日:当会代表理事/東北大学名誉教授 田中英道

 


代表理事 平成29年7月のごあいさつ

 ハンブルグ(ドイツ)のG20で、トランプはもちろん安倍首相をはじめ30人の首脳たちが集まっていました。おそらく誰も北朝鮮問題というものの実態が分からないという状況で、ICBM(大陸間弾道ミサイル)を使って、アメリカを威嚇していますが、果たして、それをやるだけの気があるのか、能力があるのか、本当に戦争をやる気があるのか分からないまま袋小路に入っています。彼らを奇妙な独裁国と見、全体像がわからないままです。重要なのは、あの国が実は「共産主義」を気取ているの国だという事をみな忘れてしまっている。「偉大な」祖父・金正日像を崇拝し、「坊や」金正恩が信じているのは、「主体思想」の「共産主義」なのです。その格好は、人民を導いているつもりのレーニンを気取っているのす。独裁政権で、暴力によって対立者を必ず殺すということであって、その問題が20世紀の最大の問題だったのです。つまり暴力革命の国なのです。武器を使った暴力革命でいくらでも世界は変えられると本気で考えています。「暴力を使うことが良いのだ」ということですね。今年は、ロシア革命からちょうど100年です。ソ連共産党が妄想したのは、暴力革命でした。いわゆる階級闘争によって支配者を倒すということが、レーニンの革命運動がマルクス主義によって裏付けられていると称して考えられてきたわけです。しかし共産主義の理想は到底無理だとわかって、結局はそこで残ったものは、「暴力」なのです。暴力で世界支配しているアメリカを威嚇し、暴力で人民を統制するのです。世界の中で、奇妙なことに、唯一「レーニン思想」を実行しているつもりなのは、北朝鮮だけです。ソ連が崩壊したことなど忘れ、チュチェの主体思想をまだ信仰しているのです。共産党一党独裁、金正恩の恐怖政治をまだ続けているのです。その国からミサイルという「暴力」で脅迫されている、アメリカ・トランプ政権が、どう出るかにかかっています。経済問題で、中国批判を棚上げにして、その指導を習近平に言いつけました。しかし習近平はどこ吹く風で、何の経済制裁をしていません。
 トランプは、中国は経済大国で北朝鮮と違うと思っているようですが、共産党一党独裁は同じです。あわれにも、「ノーベル賞平和賞」の劉暁波はその犠牲になりました。暴力を平気で使うことを見過ごしていたのです。誤魔化されてきたわけで、中国も北朝鮮も同じような発想なのです。それで、ミサイルを飛ばした日に広場に人々を集めてお祝いをやっているというような共通な現象があります。これ自体がやはり異様な20世紀の暴力革命、つまり社会主義あるいは共産主義という亡霊が作り出したひとつの虚構であることを、否定しているのです。こういうものを目にしながら、G20は何もできないということです。誰もそこに仕掛けられない、つまり20世紀の亡霊の中にいる国と、そしてその亡霊をどうすることもできない国々が集まって、各国の利益だけを追求するという状態があるわけです。いま本当に、そういう意味では、両国に対しては、西欧諸国は袋小路に入っているということでしょう。ちょうど今から100年前にシュペングラーによって『西欧の没落』が書かれたわけですけども、あれはある種の歴史の終末と言う物を西欧に見ているわけです。
 しかし重要なのは、日本という国が西欧から生まれた「共産主義」という、ひとつの幻想とは域外にあるという自覚ですね。これはやはり、日本には左翼政党がほとんど壊滅している、ということでわかります。それはまた、キリスト教徒が1%もいないということと非常に強く結びついているのです。日本が一神教という幻想に囚われなかったことは非常に重要であって、一神教の思想的な問題・課題を考慮すれば、世界における日本の立ち位置は非常に重要になってくるのです。ですからそういう「共産主義国」と「キリスト教国」の争いに、巻き込まれてはいるけれども、基本的な態度は失なってはならないということです。それを我々がいかに堅持し、発展させていくか。まさに日本が世界的な意味でどう動くか、彼らとどういうふうに対峙した主張を示すことができるかという課題が我々に課せられています。残念ながら多くのマスコミ・メディア、学界もまだまだそういう20世紀の幻想、西洋の幻想にとらわれているという状況があるわけですけれども、我々はたとえ少数派であってもやはり「日本ファースト」に活路を見出す。そういう覚悟で、これからも学会活動をやっていきたいと思っているわけです。

 

平成29年7月  当会代表理事/東北大学名誉教授 田中英道

 


代表理事 平成29年6月のごあいさつ

 私たちの会は、保守の立場の歴史研究者の学会ですが、当然、歴史事実の解釈、研究において、それに対応する政治的な動きにも、その立場から対処していかなければなりません。中国政府が「南京大虐殺」と称して日本を非難し、韓国政府が「従軍慰安婦」問題を日本批判に利用し、また日本の「言論の自由」について、国連人権理事会が非難する、といった事態に対して、毅然とした態度を取らなければなりません。歴史や現実を捏造したり、誤解していることに関して批判していかねばならないのは当然です。ただ歴史的事実の問題だけでなく、そうした歴史認識の違いが、左翼イデオロギー、つまり共産主義的、マルクス主義的な解釈であることを糾弾することも、歴史家として必要なことです。
 ただ政治運動と、学者の運動とは、区別しなければなりません。これは歴史家にとって本来大きな問題であって、もっぱら政治的な問題として取り上げて論争するということは、余りに時評的になりすぎ、学者のやることを逸脱します。落ち着いた学会的な研究を中心としてやっている我々としては、先走った時評的な動きは避けていきたいと思っています。じっくりと歴史を検討することによって、現在の保守の政治を学問的に支えていくことがこの学会の目的だろうと思います。
 その保守的な日本の知識人の泰斗であられる、渡辺昇一先生が逝去されました。心からお悔やみ申し上げます。私たちも歴史教科書の問題で、大変お世話になり、私たちの運動の強い支持者として、尊敬しておりました。また何度か、対談をさせて頂いたのも思い出として残っており、私のアメリカの戦時中のOSS「日本計画」を研究した本の推薦をしてくださったことも感謝しております。そして多くの日本思想や歴史の問題のご著書は、本学会の動きと軌を一にするものでした。
 ただ日本の思想や歴史をあれほど愛された先生のご葬式が、聖イグナチオ教会の磔刑像の前で、キリスト教徒として執り行われた問題は、看過出来ない問題と私たちに残されました。先生が日本の「知の巨人」として亡くなられたとすれば、日本の思想とその歴史認識をその立場から、どう考えればいいか、という問題です。
 学問を探求することは、私たち自身の研究者としの思想の問題を抱えているわけで、その意味でも、渡辺先生の死は、思想と宗教に関しての歴史認識の問題として、十分に議論すべきことだろうと思います。

 

平成29年6月  当会代表理事/東北大学名誉教授 田中英道

 


代表理事 平成29年5月のごあいさつ

 安倍首相が憲法改正を平成32年(2020)までになんとか通したいという話が出た今、憲法論が人々の間で非常にクローズアップされています。本当に今まで70年以上も放置されていた憲法を何とかしようということを、マスコミの方はいつもの通りいい加減な感じで揶揄しています。彼らは憲法擁護みたいなことを相変わらず言っているわけですが、もうそういう時代じゃないということも我々ははっきり知っているわけです。
 我々の学会として日本国憲法をどのように考えるかということは、これはむろん非常に重要な問題であります。たとえば天皇について「象徴」という言葉を使うことで我々はもう慣れてしまって、この前の陛下の御言葉でも象徴としての仕事が大変だというようなことをおっしゃったわけですが、私は象徴という言葉を使う必要はないと思っています。これは戦後アメリカが日本国憲法で"symbol"という言葉を使ったわけで、実を言うとある意味で軽い言葉だったはずなのです。"symbol"の意味は、思想的に言えば「何かの代わり」です。戦前アメリカ人の指導部は、日本が天皇を神としている。だから特攻隊なんかも出来たということをおそらく考えたわけです。天皇を絶対化して戦ったところがあったという風に認識したために、これを「元首」とか「統帥権をもつ」といった国家のスメラミコトというような言葉を使わせないために「象徴」という言葉を使ったとみています。ところが日本人はそれを真面目に受け取って、元来の天皇の存在の権威を「象徴」という良い言葉で言ったんだと戦後ずっと理解してきたわけです。そういう理解をいいことに、アメリカの方はある意味で天皇を打倒しようとした。天皇を軽く見させて、それを日本国民に単なる象徴である、本来の神というものではないということ言わせようとした。一方で我々は「象徴」という言葉によって、非常に権威もあるんだという逆の意味にとったわけです。西洋と我々日本の受け止め方が違ったというこの齟齬により、ある意味で戦後ずっと「象徴」の用語が使われれるようになってしまったということです。
 もうひとつ、現行の第9条にあたる条項は「平和の維持」という言葉よりも「国防の義務」ということを言うべきではないか。やはり国というのは必ず国防の義務があるわけで、そのことを言わないと国は守れないわけです。「平和の維持」と言うと、これは戦後的な言葉に過ぎてしまう。ここでは「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」ということが言われていますが、第二項では「軍」について触れている(「陸海空軍その他の戦力は…」)。先般安倍首相が第1項と第2項をそのまま残して、あとは「自衛隊」という言葉を使うと言われたのもひとつの案でしょうけれども、本来はそれではいけない。やはり「軍」、日本軍と書き換えるべきだと思います。
 先ごろ私は『日本の戦争 何が真実なのか』(扶桑社)で、これまでの日本の戦争もすべて自国の国土と国民を守るための戦争であったということを書きました。相手はロシアであったりアメリカであったりするわけですけれども、やはりそれは常に国民・国土の主権と独立を守るための戦争であったということです。例えば元寇なんかもそうです、やってきた敵に対して守ったわけです。日本側が勝ったわけですから、普通でしたら追跡して朝鮮半島に渡ってモンゴルまで攻めることだってできるわけです。そういうことは一切せず、守るだけで追い返しただけです。日露戦争も同じです、対馬沖に来たところでやっつけただけで、逆にロシアまで攻め込んだかというとやっていない。つまり日本の戦争というのは、そういう原則がずっとあった。戦後、満洲とかも侵略したじゃないかと言われるけれども、やはりあれも明らかに日本を守るということの原則に立って行ったわけです。
 「国防の義務」の次には、「軍の最高指揮権は内閣総理大臣に属する」すなわち軍に対しては文民統制の原則が確保されるということ、それから「軍の組織および統制に関する事項は法律でこれを定める」という風になればいいんじゃないでしょうか。ともかくも、憲法9条は改正すべきだろうと思います。平成32年までに憲法を改正するためには、皆さんもまた色々と考えていただく必要があります。実を言うと大日本帝国憲法制定の時も、農民も含めてたくさんの人々が草案を書きました。そうした研究についてはむしろ左翼側が利用して「人民が書いた」みたいなこと言っていますけれども、そうではなくて国家のため、天皇の国家としての日本というものを見すえて普通の人たちが書いたんです。国民(臣民)がみな関心をもったというのが、明治22年に大日本帝国憲法ができるまでの過程であったわけです。ですから、これは決して難しいことではないのです。国防の義務についても、きちんと触れている憲法を作るべきであるという風に私は考えます。
 つまり日本について、しっかりとした国家観をもち、何を守るべきなのかをより深く考える時期が来たんだと思います。

 

平成29年5月  当会代表理事/東北大学名誉教授 田中英道

 


代表理事 平成29年4月のごあいさつ

 このたび教科書における「聖徳太子」記述の問題で、なんとか「厩戸王」というのから「聖徳太子」になりました。そのこと自体は我々にとって良かったことなんですけれども、教科書業界も全体的には非常にある意味で左翼化していますから、あそこだけを「聖徳太子」としたとしても、その後がやはり問題であるわけです。
歴史観全体がおかしいところを、ああいう風に個々の事例だけを取り上げて、これが証明されていないとか、これ自体がおかしいんだというようなことが問題となってます。それ以外にも源頼朝の肖像画がどうだとか、それから元寇をどういう風に解釈するか、あるいは「鎖国」をどう定義するか等―――そういう話ではなく、従来の教科書がどういう歴史的立場から書かれているかということをしっかり突かないと、たとえ「聖徳太子」の記述になったとしても、全体がとしてどういう風に解釈するかということを主張してゆかないと非常に危ういのです。つまり、「聖徳太子」という表現を含めてすべて仏教から来た、すなわち中国の影響だということで、結局日本が中国や朝鮮の文化圏にあるという発想が根底にあるわけです。全体的な歴史観の運動にしてゆかないと、全体が変わってこないのです。
「明治維新」の問題もそうですし、あらゆる問題が階級闘争史観、常に権力争いというところだけが政治史であると。そして日本の文化という問題が全く抜けるか、あるいは添え物に過ぎないといった、上部構造―下部構造という、ある意味でマルクス主義の根幹的な見方はそのまま変わっていません。これでは、たとえば天皇についての解釈も危ういわけです。
この歴史学界というところがある種の狭い空間の中で、学者たちだけが蠢いて、これまでの70年の長い戦後史観というものの上に立ってやっていますから、意外に我々の世間的常識というものがない人たちが集まっていることになるわけです。ですからそういう人たちの、それぞれが「これは定説である」というような事を言って、あたかも自分の歴史観こそが正当であるかのように言っているということがありますから、先程の話も単なる個々の問題ではないのです。南京大虐殺とか従軍慰安婦を書かないとか、そういう個別イシューの問題ではなくて、歴史観全体の問題であります。ですから歴史を全体としてどう見るかというところから始めなくてはいけない、我々が学会を起ち上げた理由もそこにあります。
我々が「日本史観」を確立すべきなのと同時に、たとえば今「グローバリゼーション」というものをある意味で否定せざるをえないという状況になっています。そういうことで、ある意味で左翼的な、あるいは社会主義を目指すような歴史観というものがすでに退廃している、崩落しているということがあると、果たして一体我々はどういったものをこれから歴史観として持っていくか。左翼はそういうことにすぐ飛びついてきて、「戦前と違って、戦後は・・・」みたな話になるわけですが、しかしそれでも今もちゃんと天皇がおられる。それを守っているわけで、そういうところから新しい我々の歴史観を作ってゆかなくてはいけない。それを個々の歴史研究の中に対応させてゆくという、そういうことが今やはり必要なんです。
つまり歴史教科書の運動もそういう問題が非常に深くあるわけで、そのことをこれから大いに議論していきたいと思うのですけれども、まずは聖徳太子あるいは天皇の存在ということを厚い歴史の中で捉えることで、それが世界史の中での非常に重要な日本の役割の一つと見なされるようになるだろうと思います。それは同時に、日本の「自然」というものに対する考え方、つまり科学を包含したところの「自然道」と言ってもいいんですけれども、神道が内包している自然信仰というものが、やはり普遍的になりうる。科学というものを取り込むことも可能である。ですから我々の近代化の過程で、少なくとも現代においていろんな面で世界の先端に行っているのは、そういう神道のおかげではないかとさえ言えると思います。そのあたりの問題も、我々が研究していくべきだろうと思います。


国史連続講座 2017年4月8日収録分  当会代表理事/東北大学名誉教授 田中英道



代表理事 平成29年3月のごあいさつ

 この度、朴槿恵大統領が辞任に追い込まれました。日本の近隣諸国の動揺というのが非常に激しくなっていて、我々は歴史の長い体験から両国を見るということで、日本から見る両国というのは、今までは中国や朝鮮から文化がやってきたとか、そこから我々は学んだみたいなことでずっと言われてきました。その「学んだ」「教えた」と称する両国がこんな体たらくになり始めたということで、そういう実情ではなかったということの証明のようになってもいるわけです。本来の日本の在り方、日本の本当の実力というものがやはり今厳然として出てきているということがはっきり言えると思います。我々は歴史を掘り起こしてその証明していくということをずっと続けているわけです、それがある意味で実を結びつつあります。
歴史認識の問題としての「慰安婦問題」は、みなさんもご承知かと思います。今いちばん問題になっているのは少女像、慰安婦像がやたらに建てられているということがあります。これに対して学会や研究者たちが語らず、ジャーナリストたちはみな語ってはいますけれども、あの慰安婦像というのは一体何者か、何なのかということをちょっとでも考えると、おかしいことに気づくのです。実を言うと、あの少女像を作ったのはキム・ウンソンとキム・ソギョンという夫婦なんですけれども、彼らがなぜあのような少女像作ったかというと、この二人は韓国での反米活動をやっている人なのです。平成14年(2002)にアメリカ軍の装甲車が女子中学生を轢き殺したということで、それで作ったのがあの像なのです。米韓同盟を廃棄しようという運動をやっている人たちなんです。米兵をいじめ続け、追い出そうというスローガンを掲げて米軍基地にデモをしています。キム・ウンソンというのは平成19年に親北朝鮮団体の民族美術家協会の事務長として北朝鮮にも訪問している人です。そして、反米団体「平和と統一を導くサラムドゥル」の記念碑建設の委員にもなっている人です。ここから分かるように、あの少女像は日本軍の慰安婦とは全く関係ないものなのです。
ちょっとでも学問的に調べてみれば、あんな少女像が慰安婦像、特に日本人に関わる慰安婦像なんて言って世界中に設置されるというのは、元々とおかしいんです。あれは朝鮮人の女子中学生、アメリカの装甲車に引かれた女性に過ぎないんです。ですから、ジャーナリズムもみな今まであれが絶対的な慰安婦像みたいなことを認めてきたということが元来おかしいわけです。あれは慰安婦ではありませんよ、ということをはっきり言えばいいんです。そういうことをきちっと考える、あるいはどういう人がどういう意図で造ったのかということをちょっと調べれば、あんな像はデタラメだってことが分かるんです。それがいつの間にかたくさん作られて、みんなもあれは慰安婦像だと信じ込んで、なんか恥ずかしい思いをしているということ自体が元々おかしいということをはっきり言わなければいけないと思います。
私はもともとそういう彫刻のことも研究しているわけですけれども、慰安婦像であんな若い子を作るというのも芸術的なセンスがないということです。いかにもイノセントなのです。何も知らない単なる少女が騙されてゆくような、そういう姿自体もおかしいわけで、あのチマチョゴリを着て、朝鮮人慰安婦を模したとされます。でも、だいたい椅子に座って、向かって左側――座っている立場から言うと右側が空席なんです。その空いてる席は「正義をいまだに表現していない、高齢で死を迎えている生存者を象徴している」なんて勝手に言ってますけれども結局、慰安婦に応募した女性が椅子で待っているという、そういうイメージしか考えられないです。
一方の空いている席の人は、慰安婦に本当は行きたくないんだというので諦めていた――私の研究では慰安婦の記述はOSS(戦時情報局)が最初なのです。これは戦中に出ていまして、昭和19年(1944)くらいです。そういう文書に出てくるのが、最初の「慰安婦問題」なのです。どういうことかと言うと、最初は看護婦としての募集に応募した女性が、釜山あたりかと思っていたら、広島に連れてこられ、そこからビルマなどの戦線に送られるという物語の女性が言っていることとして出てくるんです。
ですから看護婦として雇われて行ったんですけども、これはどう見ても最初からその女性は戦線に送られる予定であるわけで。そして看護婦として行かざるをえなかった女性の物語がOSS文書の、つまり諜報機関が出している広報に載ったんです。ラジオ放送された体験談として記録が残っているんですけれども、その人は看護婦として募集されて日本に連れていかれ、そして戦線に行くという経緯で、そして連れてゆかれたところで兵士の相手をさせられるという嘆きを綴ったものなんです。けれども、とにかくあの時代は朝鮮でも仕事がなくて、女性もやはり生活しなくちゃいけないということで応募せざるをえなかったということがよく分かるわけです。
私は美術家ですから、そういう形を見るとどんな意味か考えるわけですけれども、大体慰安婦像を作るなんていうのは日本人だったら屈辱的ですね。自分たちがそういう目に遭っても、忘れようとするのが普通じゃないですか。たとえ他の国からやられたことであっても、それは自分たちが弱かった、あるいは愚かだったということの反省がどこかにあるわけです。ですから、日本人だったらあんなものは到底造らないし、それどころか他国の人だってああいうことは絶対にしません。強制されたみたいなことを言ったとしても、やはりその像をわざわざ造るということはありえないことです。
実を言うと、あれは一つの宗教像になっていて、一生懸命着物を着せたりして、日本人でいえばお地蔵さまになってしまったという説もあります。殉教者のように、宗教的な信仰の対象になったなどと奇妙なことを言う人もいます。それを考えると、我々が物事をいかにイデオロギーで見ているということがよく分かるでしょう。実際の経緯を見てみると慰安婦像ではないということ、そして「あれは慰安婦だ」と決めつけて、反日運動のイデオロギーのシンボルとして見ているということ自体がやはりおかしいんです。
いずれにしても朴槿恵(パク・クネ)大統領が像を撤去することを約束したはずなのに、本人がこうやって辞任してしまうということで、次の文在寅(ムン・ジェイン)という方がどう出るか知れませんけれども、もともとあの像は慰安婦ではありませんよということをはっきり言えば、向こうだってもっとたじろぐだろうと思います。


国史連続講座 2017年3月11日収録月  当会代表理事/東北大学名誉教授 田中英道



 

代表理事 平成29年2月のごあいさつ

トランプ問題と日本


この頃トランプ問題、もう一つは金正男の事件もありますけれども、やはりトランプが政権を取ってから世の中は非常に面白くなってきたということが言えます。つまり、これまでの20世紀のある種のイデオロギーが消えていくということが、はっきり出てきました。リベラル・イデオロギーというか、要するに左翼がほとんど社会主義的なものを喪失してリベラルだけが残ったわけです。けれども、リベラルもまた非常に動揺して――私はこの次『リベラルという破壊主義者』という刺激的なタイトルの本を書くつもりなんですけども――やはりそういうところが、最後の砦みたいになってきました。今、トランプ大統領批判を一生懸命やっていますけれども、それも非常に危うい状況になっている。だから総崩れになってきているということが分かるわけです。しかし既成の権威というか、既成のマスコミ、既成の出版界をまだ牛耳っている感があって、これからは少し変わってくるべきだろうと。
 私は最近、中山恭子さん(日本のこころ代表)とチャンネル桜の番組で対談しました。トランプ大統領がとにかく当選してすぐ安倍首相と会って、最初に会った海外の首相であったこと。それから今回二日間も安倍首相と付き合っているということが、あたかも単なる日本の追従外交みたいな事を相変わらず言う人もいるし、それから基本的にいちばん近い日本との同盟国として会ったというような短絡的な評価しかできない方が多いです。実を言うと私は、トランプ大統領が決して単なるビジネスマンの政治家ではなくて、20世紀に対するかなり思想的な反省と、21世紀に対する責任を持っている政治家として見ることができると思います。
 やはりブキャナンという共和党の評論家――大統領選挙にも立候補したことがある人ですけども――この人の本を読めば、フランクルト学派が完全に否定されています。つまり20世紀イデオロギーというのはほとんどフランクルト学派であって、これが発祥はドイツですが、アメリカが基本的にほとんど染まっています。コロンビア大学、ハーバード大学、みんなそういうところで、いわゆる文化左翼に基点を置いているわけです。私が文化を基本的に大事だというのはそこであって、政治あるいは経済史からの観点だけでトランプを論じてはいけないと思います。文化についてなぜ言うかというと、安倍首相は去年のG7を伊勢志摩でやって、結局マスコミが志摩半島の海辺での並びの姿ばかりを映します。けれども、実を言うと伊勢神宮の前で7人並んで写真を撮っている。その写真が非常に重要なのであって、世界を伊勢神宮化するというと語弊がありますけれども、神道が素晴らしいんだという事を平気で言う首相が出てきたということです。ですから、プーチンが3時間遅れてきた時に彼はどこ行っているかというと、お墓参りをしている。山口にいたからか、そういう祖先崇拝あるいは神道に対する敬意というものが安倍さんには備わっているわけで、それが靖国参拝をした理由でもあるし、必ず供物を届けている。
 今では「建国記念の日」なんて言ってますが、紀元節の2月11日に私はこの学会の事務局長と一緒に橿原神宮の紀元祭に参列してきました。やはり素晴らしい勅使が来られて、随員が御幣物を担がれて、非常に素晴らしい祭事を見ることができた。それから巫女の舞――素晴らしい舞があって、基本的に伝統と文化がしっかり継続されているということ。戦後は「政教分離」なんて言われてますけれども、粛々とそういう伝統と文化が続いていて、そうしたものを精神的に共有すること、それが文化なんです。ですから安倍首相のような政治家が体現していることと裏腹に、近代化あるいは政教分離ということが多くの日本人の身に付いてしまって、皆さん自体が変えないといけないということなんです。ですから政治的に保守だと称している人が、生活が全く左翼と同じような、伝統文化を切ってしまっているような生活をしていること自体がおかしいわけで、その辺も我々の戦後の問題というのが大きくあるわけです。
そういうことに我々もちゃんと参画していくことによって、文化というものを歴史の中心に置いていく。そして政治とかお金の問題とか争いばかりが「歴史」だと思い込んでいるところを、変えていくのが重要です。トランプ大統領がそこまで自覚しているか分かりませんが、やはり安倍首相を呼んだ。『ニューヨークタイムス』も『ワシントンポスト』も安倍首相が最右翼で、保守のガチガチであるかのような報道ばかりしています。そういう人を最初に呼んだ彼も、ものすごく勇気があるわけです。勇気というか、それが当然だということでしょう。それと娘婿のクシュナーという人がユダヤ正教徒であるわけで、娘もユダヤ正教徒になる。これによって、この間もイスラエルのネタニヤフ首相がやってきて、そちらとの同盟も非常に強いわけです。ここはちょっと問題になると私は思っているんですけれども、しかしイスラエル第一主義とアメリカ第一主義、そして安倍首相も常に日本第一主義で来たんだと認識されている。ですから日本は実にうまくやる、経済的にもですね。そういう認識をトランプ大統領ももっている。それを見習いたいということで、今回もアメリカが貿易赤字になっている中国やメキシコが批判されましたが、日本が除外されているということです。これも安倍外交として、なかなか成功していると思います。
そういう意味でトランプ大統領が伝統と文化を主張する中で――アメリカの場合は200年ですから文化といっても浅いので、そんなに強く言えないわけですけども、日本の安倍首相はそういうことをやっているということですね。私たちはそれを支持していくと同時に、我々の日本の歴史と文化というものを再認識していくということ。これこそ非常に重要な、我々に課せられた課題です。学者がそれをできないようでは、政治家がそういうものを使うわけにもいかないし、今のままでは基礎がないわけですから、やはりそれを是非学会に集う皆さんと共に今後もやっていきたいと思っています。 

 

平成29年2月  当会代表理事/東北大学名誉教授 田中英道

 


 

代表理事 平成29年1月のごあいさつ

 今年はトランプが大統領になるということで、非常に世界が、色が変わったという感じがする方も多いと思います。これは、マスコミが十分に捉えていないし、日本の多くのジャーナリストや批評家が、まだトランプがどういう人なのか、あるいはどういう世界になっていくのかが分からないということによるものです。大統領選でトランプが勝つことを自分は予言していたというようなことを言う人はいますが、世界がどういう風に変わっていくか――これが本当はいちばん重要な問題なのですが――について考えるためには、歴史的な背景を分析していかなくてはいけないと思います。やはり、歴史をしっかりと捉えないと、今回のトランプの出現というのは分からないということです。
 基本的な筋としては、キッシンジャー――これは戦後の世界、特にアメリカを指導してきた人ですが――と、もう一人はブキャナンという人です。この二人がある意味で、戦後アメリカの保守あるいは現実をしっかりと見ていた人だろうと思います。あとの人たちはだいたいハーバード大学などの大学にいて、そういう狭い範囲でしか社会を見ていないわけです。実はリチャード・ローティというアメリカの学者が使っている言葉ですが、こうした大学左翼あるいは文化左翼という言葉が非常に重要なんです。毎日通っている大学の研究室――評論家は書斎ですが――そういう言論では、もう社会は見えないということを言っています。我々大学の研究者に対するものすごい批判であるわけですが、観念左翼すなわち基本的に戦後の左翼ユダヤ人学者がだいたいそういう言論を作り上げてきたわけです。そういう大学左翼・文化左翼といった左翼ユダヤ人に対して、いわゆる経済界あるいは実際の社会そのもので働いているユダヤ人、この分裂が今度のトランプを生み出しました。だから実を言うと、トランプもヒラリーも同じユダヤ人を背景にしているということです。このことが見えないと、トランプというのは何だか訳が分からないということになってしまう。やはりそこのところにキッシンジャーがはっきりメスを入れているわけで、この人の言論というのが非常に注目されるわけです。
 こういうことは、基本的に我々が西欧というものを実体験したうえでないとちょっと分からないところがあります。つまりユダヤ人問題というのも、そこにそういう人たちがいるということが見えてこないと――日本には一切出てきませんから――何も分かりません。日本人は基本的に、あまりにも旅行しすぎて、ただ旅行して帰ってくるだけなんです。そこで生活をする、そこで向こうの人々と闘う、あるいはそこで何か実体験するといった西洋体験が長くないと、分からないことがあるわけです。今の大学の留学制度でも、「一年行って帰ってきました」「サバティカルで帰ってきました」ということをやっている限りは、見えてきません。単なる“観光旅行”をしただけで帰ってくる学者が多い。そういう状況である限りは、いつまでたっても大学左翼・文化左翼。結局「文化」が彼らのターゲット、戦後左翼のターゲットであることは基本です。つまり労働者じゃないんです、経済界でもない。文化だけを握って、そこから人々の「疎外感」を与えるという。決してconfirmativeというか、肯定的なものではない。その辺も、もう一回考え直さなければいけないと思います。
 いずれにしても、日本国史学会がそういう問題について、批評界や一般のジャーナリズム、あるいはマスコミなんかとも違う、世界に対するじっくりとした考察を行っていく必要があるだろうと思っています。今年も皆さんと是非この学会を盛り上げてゆきたいと思います、よろしくお願いいたします。

 

平成29年1月  当会代表理事/東北大学名誉教授 田中英道

 


 

代表理事 12月のごあいさつ

 12月が来ると、真珠湾攻撃の問題が常に我々の脳裏に浮かんできます。ところが、それをどう考えるかということは、いまだにはっきり決着がついていません。ご存じのように、オバマ大統領が政治的なアクションとして広島まで来られました。平和外交といいますか、日本とアメリカの対話をより広げようという意図が非常に見えて、今度は安倍首相とオバマ大統領がハワイに行かれる。現代史を考える上でこの問題は重要で、つまり我々が仕掛けたのか、向こうが仕掛けたのか。今まではだいたい日本が、軍国主義が悪いんだということが流布してきたんですが、喧嘩両成敗だというような論調が今出始めています。同時に私たちが、これまでの日本の戦争とは結局何だったかということを考えると、やはり日本人から仕掛けるということはちょっと考えられないわけです。
 たとえば元寇なんていうあの大戦争でも、モンゴル軍が来たから戦ったんです。日清戦争にしろ、日露戦争にしろ、やはり待ち構えて戦っています。日露戦争にいたっては、向こうはバルチック艦隊が遠くヨーロッパから回ってきて初めて日本海の対馬周辺で戦ったわけです。日本がバルト海まで、ヨーロッパまで攻めていくということは一度もしていません。日清戦争にしても、これは明らかに朝鮮問題が中心であって、わざわざ清国を叩くために戦争やっているのではありません。日本側から叩くということは、それまでしたことがないのです。ちょっと自己宣伝になりますが、このたび『日本の戦争 何が真実なのか』(育鵬社)というのを出版しました。これまでの日本の対外戦争とは一体どういうものだったかということを調べて、やはりそこで日本というものが、戦争をどういうふうに考えていたかと歴史的に把握してみようと考えたわけです。
 一方的なものではなくて、必ずどちらかが仕掛けて、相手が応じるという関係の中で考えざるを得なくなってきている。そして前にも述べたOSS計画では、最初から天皇をターゲットにしないということを考えていますから、このことが一体どういうことなのかということを新しい資料でもって考えなくてはいけないわけです。これまでの日本の戦争のあり方と、今回のあり方は、決して違うはずがないと思っています。
 それから原爆について、決して昭和20年7月の終わりになって決めたのではなくて、その一年前すでにチャーチルとスターリンとルーズベルトが決めていたということも、新しい文書で分かってきています。今回の安倍―オバマ会談に際して、やはりそのことを我々が歴史的に、学問的に考えるというのが大事なことだろうと思います。
 昭和天皇が最後に仰せられたように「終戦の詔勅」であって、決して「敗戦の詔勅」ではないということです。そういう意味でも、やはり基本的にアメリカが仕掛けた戦争であるということを、われわれは肝に銘じて歴史を分析しなければなりません。トランプ現象もある今、本当にあらゆる20世紀的な、ある種の左翼的なタブーが解けて、我々が改めて考え直さなくてはいけない時期が来ています。日本国史学会としても、決して元に戻るではなくて、新しい資料から新しい歴史を考え直していかなくてはいけない。そういう使命を、ある意味で帯びているのだろうと思います。皆さんと共に、それをやっていきたいと思います。

 

平成28年12月  当会代表理事/東北大学名誉教授 田中英道

 


 

代表理事 11月のごあいさつ

 ちょうど今、アメリカでトランプが大統領になって、本当に意外なというようなことばかり、マスコミが伝えてもいます。今まではグローバリゼーションなどあらゆる戦後の思想を、あたかもそれがエリートの考え方、イデオロギーのように思わされてきました。それがクリントン含めて、化けの皮が剥がれ始めたと言うことができます。
トランプ自体は教養がなくても、あるいはそれほど知性が感じられなくても、やはり本音というのが出てきて、それがあれだけの支持を受けたということになるわけです。それについてはポピュリズム、要するに白人の中間層以下が支持したとか、いろいろと言われています。けれどもそうではないんです、今までの方があまりにもイデオロギーで人々が物事を考えすぎていたんです。グローバリゼーションも、フェミニズムもそうですね。女性が大統領になるということは、まさにフェミニズムの成果みたいに期待されたところがありました。そういう支持者が多かったけれども、結局サンダースもクリントンも負けたということで、まさにイデオロギーなしの手ぶらの歴史観、考え方というものが今はっきりと必要になってきています。
ですから実態を直視して、そこから歴史あるいは現実を語るということをしなくてはいけない。ですから私たちはこの日本国史学会を立ち上げて、やはりある意味ではその成果、今までのイデオロギーで見ていた歴史ではない本当の歴史を見つめていく。それゆえに、イデオロギーを抜きとすすれば、歴史の中に何が見えるかという問題が出てきます。そこはやはり、我々の文化と伝統だろうと思います。ですからその文化と伝統をしっかりと見すえることによって、別にトランプが当選したから彼を支持するのではなく、彼の言う、ある意味での壁をぶち破って、これまでのエスタブリッシュメント、そして民主党の偽善性ですね。一方では進歩的なことを言いながら、クリントンの財団が2,000億集めて完全に私腹を肥やしているというような話だったわけですが。いずれにしても、そういう金融と結びついたエスタブリッシュメントなんていうのはやはりおかしいのです。そのおかしさを今、全部はぎ取ったということであって、これから果たしてアメリカがどうなるか。そこでやはり、日本が日本として主張するためには、やはり我々が歴史と文化を再検討するという以外にないわけです。

 

平成28年11月  当会代表理事/東北大学名誉教授 田中英道

 


 

代表理事 10月のごあいさつ

 先日ヨーロッパに行ってきました。皆さんヨーロッパというと今やテロ一色みたいなことが報道されていて、危険な場所だと言う感じがするので「気をつけろ」などと言われるわけです。でもそれはとんでもない嘘で、テロリズムの影響は何も無いのです。それは現代の資本主義が基本的にはきちっと保たれておりまして、各国のいわゆる経済的な問題もそれほど重要ではないということです。もちろんイギリスのEU離脱という問題も、結局何の影響もない。イギリスの経済自体も決して衰えているわけでは無い。つまり過剰な報道ぶりが現代人を混乱させる、あるいは常に不安にさせるという報道体制ができている。これはある意味で21世紀における新しい隠れマルクス主義、あるいは混乱を起こす作戦と言ってもよい。ですから基本的に、あのテロリズムを行っているところがどこかということがいまだに分からないのです。我々が「イスラム国」というようなことで、何か常にイスラム教のある種の犯罪を行なっていると捉えるように駆り立てていますが、なんら証拠がない。このことはイスラム国そのものがいかにおかしな状態にあって、そして実態がほとんど分かっていないというところに問題があるわけです。
いずれにせよ9.11の問題から始まる虚構の世界というのが、今崩れつつあると言える。それで実態は、世界が安定してきて人々が非常に、各国のナショナリズムを消そうとしている人たちに対するひとつの大きな反動が起こっているといってもいい。ですから、それがひとつひとつの文化立国を目指している各国の潜在的な動きとなっています。今、観光で10億以上の人々が動いていると言われているわけです。そして、その半分の5億位が欧米系の人たちであるということも言われている。結局それだけ「文化」への飢えのようなものが人々を動かしている。現代の非常に貧寒とした文化・精神の中で、ある意味では無神論あるいはニヒリズムがいわゆる保守主義者の間でも飛び交っています。伝統的なものは皆消えたみたいなことが言われていて、そういうことが良いことで、ナウな年代性だと。それも全部作られたイメージです。
もちろんマスコミがそういう手段となっていることは明らかですが、やはりフランクフルト学派といった、明らかにそれを狙った20世紀の大きな風潮が現代文化の中にもあることを見抜かないとダメなのです。我々日本という国は伝統と文化を一方で非常にきちんと残している国ですから、アメリカのようには無視できない。アメリカという国は、インディアンの文化も彼らが受け継いでいるのではないですから、どうにでもなるわけです。日本はそうはいかない。やはり日本の伝統と文化というものは厳然として残っており、そして我々の中にもあるということ。神道というものが、まだまだ私たちの中に生きている。そういうことをしっかりと認識し直さないといけない。
私はアンドレマルロー学会の副会長をやっているものですから、実は今回パリにも行きました。アンドレマルローと言う人は『人間の条件』を書いた人です、清・ジゾールという主人公は日本人なんです。日本人とのあいのこになっていますが、マルローは日本人にある種の期待をもって20世紀を作り出そうとした人です。彼は日本に何度も来ていまして、最後は那智の滝の前で感動するわけです。今年はその死後40年を期して、パスカルも滞在したことがあるポール・ロワイヤルという修道院での学会に出席しました。もうひとつはローマで、この前一か月開催した日本の仏像展をこの後どうするかという問題を主催者側の人たちと相談してきました。そうするとイタリアあるいは他のヨーロッパの国で、ひとつはあのドナテルロやミケランジェロにも匹敵する運慶と慶派の展覧会を是非やってくれと。
もうひとつは、イタリアでも最近有名になった『源氏物語』です。イタリア語から訳したマリアテレサ・オルシというローマ大学元教授と親しく話をして、それ以後の日本の絵画伝統を作った、絵巻から屏風絵までの『源氏物語』の展覧会を是非開いてほしいという事を言われました。 今ひとつは私のレオナルド・ダ・ヴィンチ研究の一環で、1989年に芸大の彫刻家の方々と一緒に名古屋の国際会議場に作った全長10メートル近くのスフォルツァ騎馬像があるんですね。これはレオナルドが、実は自重で倒れてしまうということが分からずにブロンズで作ろうとしました。それを我々はFRP(繊維強化プラスチック)という10分の1ぐらいの軽い素材で、彼の計画したデッサンを実現したんです。それを是非イタリアに持ってきてほしいという提案もあって、この三つの提案をなんとか実現しようと話しました。アメリカやフランスなどいろんな展覧会に回してもいいということで文化庁に相談して、そういう文化交流の実を上げたいと思っております。

 

平成28年10月  当会代表理事/東北大学名誉教授 田中英道

 


 

代表理事 9月のごあいさつ

 先月は皆さんご存知のように、8月8日に陛下のビデオメッセージがあり、8月15日の終戦という記念日があり、歴史というものが、我々が生きている時にそれを考えざるを得ません。個人的体験と同時にそれが公的な物というもの等を結び付ける――つまり、われわれは歴史というものを、常に書かれたもの、自分たちと違うものと考えがちですけれども、やはり我々自体が生きている現代というものがそこに連続していると同時に、そこに生きた人間が居るということです。そういうことを我々が常に考えていくということが歴史を考える上で非常に重要なことです。そして常にその考えを過去に及ぼしていくということです。ご先祖たちというか、我々の先人たちが、いかに我々と同じように思考して生きてきたかと考えことこそ、本当に歴史を考えることだろうと思います。
戦後の図式、イデオロギーで見てきたものではない「歴史」を我々が作っていくという必要が出てきています。これまでも言ってきましたように、20世紀というのはイデオロギーの世紀でした。特に左翼イデオロギー、社会主義イデオロギーの世紀。今もそういう、ある種の幻想で世界を見てゆく人たちが多いわけです。残念上ながら大学もそういう幻想をもっている人たちが多く、今それが崩壊しつつあるということはみなさんもお分かりになっているだろうと思います。
だとすれば、我々はどのように歴史を見ていくか。今回の天皇のご譲位の話というのはそういう意味では非常に重大で、雑誌『Will』にも少し書いたのですけれども、参議院議員選挙で安倍自民党が大勝して改憲派が3分の2をとるのが可能になった。3分の2を取った後に天皇陛下がこういうお話をなされたということが、実は大事なところです。お疲れになったというのは、もう2~3年前からお話があったわけですが、これから憲法を改正できますよという時点でご発表になったということです。
特に「象徴」という言葉をお使いになっていることも重要で、これは実は戦後憲法で初めて出できたといってもいい訳です。戦後の天皇の地位については、1942年のOSS文書で最初に"symbol"と出てくる。やはりこうした文書についてもう少し研究しないと、「象徴」という言葉で天皇の御立場を規定したということ自体の意味が分かりません。このOSSの「日本計画」というのは、やはりどう見てもある種の分裂というか、いわゆる階級闘争で日本に亀裂を生じさせる。明らかに社会主義革命というもの狙っていることが分かります。当時のルーズベルト政権はニューディールという社会主義者的な政策で、思想的にソ連と非常に近かったことが明らかですから、そういう連中がどんどんGHQに入ってきた。さらにその前にOSS計画の関係者も、アメリカ共産党がほとんどを占めていた。ですから日本国憲法というものを、戦後なぜ共産党と社会党(現:社民党)が死守しようとしてきたか。つまりこの憲法は民主主義じゃなくて、社会主義に持ってゆく前段階だという意味があるからです。日本をそういう風に変えたいと思う者たちが、基本的に現憲法を支持している。「象徴」という言葉で天皇を軽く見させるための要素が、憲法の中にあるということなのです。
憲法9条にせよ、積極的にはそう示してないものの、戦後すぐに革命を起こすときに軍隊があったら困ると。戦争があったときに必ず革命起こすというのがレーニンの革命理論ですが、ところがその後、ハンガリー革命もドイツ革命も全部軍隊に簡単に潰されてしまいました。そこで革命遂行のための憲法という考え方がフランクフルト学派にあったというふうに考えないと、当時の社会主義理論と言うのは分かりません。これがコミンテルンの「32年テーゼ」の二段階革命で、とにかく戦後日本に革命を起こすということだったのです。「押しつけ憲法」というのは「社会主義者による押しつけ憲法」だったということを忘れてはなりません。

 

平成28年9月  当会代表理事/東北大学名誉教授 田中英道

 


 

代表理事 8月のごあいさつ

 一昨日イタリアから帰ってきました。ちょうどイタリア・ローマで大統領官邸もある中心的な場所、クイレナーレ宮美術館で日本仏像展が始まりました。ご存じと思いますが、ヨーロッパでは例えば美術品の60%はイタリアから出ている。アメリカ、それからヨーロッパ全体のミュージアムの60%はイタリアのものなのです。そういう古代ローマからの伝統が、やはり基本的にイタリアというところに集中している。ローマの方がはるかに長い歴史を持っていると思う方もいるでしょうけれども、これはとんでもない間違いで、日本がそれと対抗できるいちばん古い国なんです。


 そういう概念が果たしてイタリアで広まるかどうかは別ですけれども、私たちは、イタリアと日本というのはそういうある種の対立というよりも共立的な関係として歴史を見るべきです。この芸術という問題に関しても、イタリアと日本というのは非常に共立しています。これはローマからロマネスク、そしてゴシック?ルネッサンスと続くイタリアと、縄文?弥生そして飛鳥?奈良?平安?鎌倉と続いていく日本。そういう全体的な美術史の関係もほぼ並行しています。そういう見方をする人は日本でも少ないし、向こうでもまだまだ普及しているわけではないのですけども、初めてこういう展覧会が開かれることによって、少なくとも並行関係の文化史というものがイタリアと日本にあるんだという議論をこれから展開していきたいと思います。


 残念ながら最高の作品が必ずしも展覧会に行かず、文化庁も2年間しか準備期間がなかったんですが、文化庁周辺を中心に地方仏を集めて、一応優れた重要文化財級のものを中心に全35点が出品されています。残念ながらジャーナリズム・マスコミあるいは巷の"日本ブーム"についての認識が、漫画とか日本料理などに偏っているために、一般的な人々が数多く来るかどうかはまだ分かりません。しかしこういうことをやることによって、少なくとも7世紀から13世紀までの彫刻が日本は世界一優れているということが認識されればいいという風に思っているわけです。


 いずれにせよ、日伊修好150周年(慶應2年=1866年に日伊修好通商条約を締結してから150年目)の記念すべき時に、文化庁はこれ一つしかやっていません。一方で皆さんご存じのように、日本ではカラバッジョ、ボッティチェリ、ベネチア派はもちろんミケランジェロ、レオナルド・ダ・ヴィンチ??たくさんの展覧会をやっているのですが、それがイタリアの文化財・文化活動省に非常にお世話になっているということがほとんど知られていないのです。そこに国宝級というか大家の非常な傑作が、もちろんそこまで多くはないですが必ず出品されているわけです。目玉が来ているわけです。ところがローマの日本仏像展では、ある意味で目玉がないという風に言われています。それでも湛慶の毘沙門天像(重要文化財)、それから維摩居士像(重要文化財)なんかが出品されました。後者は病気の一人の維摩居士が日本の僧侶をモデルにして描かれているものですが、八世紀の終わりにこれ程のものができた意義が改めて分かります。こうした意義は日本の皆さんも、おそらく知らないと思います。


 こういうことが教育でほとんど伝えられていないということで、日本のお宝を日本人が知らない。そういうことで、こういう優れた像があるというのを、まずはヨーロッパに知らせることになります。ドナテルロあるいはミケランジェロといったレベルでは、我が国にも運慶や(国中)公麻呂といった仏師がいるわけで、幸い解説本の中にもそういう写真が載っています。だいたい日本人は外国が良いと言うことで、初めて「そうか」と自分を認識するという悪い癖がありますから、このように本場イタリアでやるということは、紹介の意味があって非常にいいと思います。


 展覧会のカタログでは、私もイタリア側の執筆者として書いています。日本の文化庁は最初私を外そうとして、日本側の書き手としては載らないことになって、イタリア側の1人としてここに書いているという状態なのです。私の考え方が文化庁と異なるからです。彼らの日本文化に関する考え方には世界との比較の観点がありません。いずれにしても文化庁は、日本文化の世界への発信の仕方がまだまだ身についていない。そしてまだまだ一流のものを出品しないということ、それもやはり文化庁の大きな欠点だろうと思います。いずれにしても我々は、そういう問題にも取り組みながら学会の運営を進めてゆきたいと思います。

 

平成28年8月  当会代表理事/東北大学名誉教授 田中英道

 


 

代表理事 6月のごあいさつ

 この日本国史学会の講義を全部ホームページで公開することになりまして、4月からそういう試みをします。出来る限り、インターネットでこの講義を聞けるというふうにしたいと思っています。やはり若い方が非常に関心を持っていただく。わざわざここに来てくださらなくてもネットで聴けると言う状態にし、そしてまた同時にそれがこういう土曜日の忙しい時に来てくださらなくても聞けるという、それが本当に我々の考え方を広めるひとつの大きなきっかけにもなるだろうと期待しています。

 

 やはり非常に歴史そのものが戦後の歴史観で歪められている今、われわれのこの考え方が歴史教科書を改善する。そういう国家観をもった本来の日本の「国史」をもう一回再構築する、そういう使命があるわけです。そういう意味で最初から、ある意味で縄文時代よりも前から始めたいというふうに思っています。そういう日本のアイデンティティという問題あるいは『古事記』『日本書紀』に書かれていることが、これまで戦後たくさんの考古学的な発見とどのように結びつくかというような問題として『記紀』がもっている世界性、要するに日本の神話と言うものが世界の神話とどのように結合しているのかという問題。それがやはり日本人の世界性というか、あるいはアフリカから出発した人々がどのように日本にたどり着いたか、そういう問題と重ね重なり合っているわけです。

 

 今の歴史教科書は日中韓隷属史観、そして階級国家観で占められています。つまり常に貧富の差が出てきて、そして階級が出来上がって、常に争いがあるというようなことを前提として日本の国家を考える。日本には縄文からそういう戦いの論理はありません。西洋なんかが歴史上百数十回戦争をやっているという中で、日本は7回しか大きな戦争をしていないのです。これは比較をすれば良く分かりますが、非常に戦いを避ける、あるいは戦いをしないということが前提の国家です。

 

 戦争は出来るだけ避ける、しかし外からやってきた侵略には絶対に負けないという事をずっと貫いている。専守防衛といってもいいですが、こういう徹底した考え方を持っている。私は『日本史の5つの法則』という本を書いたのですが、その一つに専守防衛ということがあって、それは日本の空手の原理である。つまり攻めて来たら絶対に勝つ、しかしこっちから攻撃しないという大原則です。そういうことを伝えるのも、新しい歴史教科書を作るひとつの大きな原動力になったわけです。私たちの中から、新しい歴史を見る目を育てていくということなのです。

 

平成28年6月  当会代表理事/東北大学名誉教授 田中英道

 


 

代表理事 5月のごあいさつ

 皆さんご承知のように、北朝鮮では36年ぶりの党大会が開催されました。その有様を見ていると、まだ共産主義は続いているということが非常に実感されます。同時に中国もまた同じであるということを忘れてはいけません。あの党大会もそうですが、言論の自由がないというか、思想的にも精神的にも基本的に人々が完全に窒息しているという状況です。私は去年11月に、北京大学の北京フォーラムに招かれて行ってきました。一応ノーベル賞級の人たちが招かれてやっているわけですが、実際参加してみますと中国人の学者がほとんど発言しない。発言しても本当に事実関係だけを述べていて、そこでちょっとでも共産党の問題あるいは政治体制の問題を言うと途端に引いてしまう。そういうことそのものが言論の窒息であり、言論の弾圧・抑圧であるわけです。

 

 今月のシンポジウムでは、そういう問題をテーマに取り上げます。我が国はいちばん中国にもソ連にも近いし、北朝鮮にも近い。あらゆるところに接している日本が最も敏感であるべき問題であるわけです。ご存知のように、フランス人が書いた『共産主義黒書』という書籍が出ています。これはつまりナチが追及されても、なぜソ連あるいは共産主義体制のことを誰も告発しないのかということです。これは共産主義という言葉の中に、ユートピアみたいなもの、ある意味でヒューマニズムの名のもとに語られるということが一方にあって、現実には全くそうでは無いということ。その現実が明らかにそうではないということの方が、はるかに本質であるわけです。そういうユートピアあるいは言葉によって作られる幻想、つまり言葉の思想でわれわれは明治以降西欧にある意味でものすごく影響を受けて、また学者がそれをすべて真に受けて、あたかもそれが真実であるかのごとく論じてきました。それが東大であり、京大であり、つまり我々だったわけです。そういう言論そのものが非現実的、つまり一般の国民の方がまだよく分かっているということなんです。しかし、そういう方々は言論を持っていません。今こそ彼らに言論を持たせよう、そこから我々が言葉を発見していこう。そういうことの営みが日本国史学会であるわけです。

 

 その問題は最初から、共産主義そのものがある種のヒューマニズムであるようなことで語られていたわけです。けれども私は文化という物に非常に注目したわけで、共産主義の中では全く文化が生まれませんでした。文化というものは根強い伝統の中に作られなければいけないし、一つのイデオロギーだけではできないのです。それからもう一つ言えば、国家観というものがない文化というものは、そこに正義がない。そこに正統性がない。そこを文化の根幹に置いているのが日本であります。ソ連で1917年に革命が起きたときに、一番よく対応したのが日本だと私は思います。一方ではシベリア出兵ということで、いちばん長くいた。それと同時に共産主義の悪というものをいちばん最初から国として抱えていたのも日本だと思います。そのことはある意味での日本のあり方の評価というところに、重要な視点があるだろうと思います。

 

平成28年5月  当会代表理事/東北大学名誉教授 田中英道

 


 

代表理事 4月のごあいさつ

歴史への健全なナショナリズムの必要性

 今日は新学期の四月にふさわしく、多くの皆さんが来講され喜んでいます。平間先生の講義をお聞きに来られた方々も多いと聞きます。

 

 いずれにせよ、この増加ぶりは、四年前、立ち上げられた日本国史学会自身、一層、今、注目されてきたからだと自負しております。その原因は、何かといいますと、グローバリゼーションへの懐疑が、一般化してきたことだと思います。日本史ではなく、なぜ日本國史、と私たちが主張することが理解され始めた、ということでもあるでしょう。今、日本をあらゆる方面から、ナショナリズムと言う問題が上がってきています。

 

 憲法改正の問題ももちろんその一つです。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」などと「前文」に書かれたことが、いかに嘘の文言であるかが、核・威嚇をする北朝鮮だけではなく、常に反日的な言葉を繰り返す中国、韓国のナショナリズムの勝手な言動には、大多数の日本人が眼をしかめていることでもわかります。どこに「平和を愛する諸国民の公正と信義」があるか、ということです。つまりそれは昔はインターナショナリズム、現在はグローバリズムという、国境を越えて「世界人間」・「地球人間」とかいう人々がいると信じることから始まっています。そんな人々はいないのです。

 

 グローバリズム、多文化主義なとと言う、ひとつのイデオロギーが、学界やマスコミ、知識人たちに一般化し始め、ナショナリズムを超えた人間がいるんだというようなことが、まことしやかに人々に、信じられてきました。そういうことが朝日や NHK など、 あらゆるところで宣伝され、あたかも事実であるかのようにされてしまったのです。それが憲法改正、現憲法破棄の動きを押しとどめようとする左翼の思想となっているのです。

 

 しかし国家が現代において成立している以上、必ず健全なナショナリズムが必要なのです。その国家は、近現代になって出来たものではないのです。日本の歴史学界でも「新しい世界史」〈羽田正著)などが書かれ、地球人間的に捉えることがあたかも良いかのように言っています。『日本国史学』書評欄でもこの本を徹底的に批判をしていますが、特に問題は歴史家が、国家観がなくなっていることです。国家というのは、ベネディクト・アンダーソンが「想像の共同体」だというのを丸呑みにしているのです。

 

 日本だと、吉本隆明が国家はある意味で1つの幻想である。「国家幻想」であるというようなことを、述べて人気を得ました。この吉本という人は、言語論もソシュールだし、国家論もマルクスやアンダーソンと同じことを、自分が発見したように言っていたのです。戦後は歴史家は一斉に、ネイションは完全に近代の発明である」といいました。すべてマルクス主義者です。たしかに日本でもそうした国家論が、明治以降出来たもののように繰り返し論じられて来ました。 そういうふうに戦後言われてきた訳ですが、私たちはそれがみんなウソだということをはっきり言っています。

 

 これは私たちが日本人であるからこそ言えることなのです。「近代」になって初めて国家ができたみたいな事を言い、天皇という存在でさえも、明治以降の虚構であるかのように言っているのです。それがあたかも明治以降の国家主義が出てきた後の問題だと、必ず大体の左翼学者が言っています。そういう国家論に対する我々の強い批判というものがあって、それが一つの国史学会のテーゼになっています。

 

 西洋の国家論は、もともと国家否定のデイアスポラ・左翼ユダヤ人学者が作ったもので、現実の歴史に即していません。歴史は原始時代から、小国家の歴史といって良いでしょう。とくに日本は、縄文時代から小国家があったと考えられるし、古墳時代には日本という祭祀国家が形成され、それがさらに律令的に統一されたのが、飛鳥時代以後ということが出来ます。そして日本では、国家とは、家族を基礎にしていることを、家という言葉を入れていることでわかります。八紘一宇の精神です。それが正しい国家認識です。

 

 日本のナショナリズムとは何かという問題ですが、もっと原初に還って、我々の中の日本人としての生き方の中にあるのです。そこから引き出せる何かが日本のナショナリズムになるわけで、そういう事は決っして、いろいろな外国の知識を得て変わるものでは無いものであり、それがすべての日本人にあるということです。そのことをわれわれが歴史回帰というところに結びつけていく。歴史研究をあらたに立て直すことによって、その事を、日本国史学会に結集して学者を育てていきたいと思います。

 

 戦後70年の今になって改めて、日本人が日本人であると言う事を分かってきた。それは何なのかという事の探求ですね。それを共通の問題として考えて行く、研究していくということ、それが我々の立場だろうと思います。そのことを、国家という問題もまたそれ自体が、研究課題なるわけですが、今これは世界中に顕著に湧き上がってくる問題でもあるわけです。グローバリズムという一時はやった言葉も、色あせて来ている。実態が無かったからです。国際企業がそれだ、というのですが、それを執り行っているのは、各国の人で、それぞれの国に属しているのです。資本もどこかの国に還元される。タックスヘブンで逃げても、限界があります。 グローバリズムで、すでに国家がかき混ぜられることが、今世界でなされているというわけですが、それは全く一部に限られている。現実的ではありません。

 

 私たちは、戦後を狂わした国際主義イデオロギー、マルクス主義的思想を批判を忌憚なく行っていかねばなりません。そのためにはお互いに切磋琢磨して行かねばならないのです。この日本國史学会がその機能を果たせればいいと思っております。

 

平成28年4月  当会代表理事/東北大学名誉教授 田中英道

 


 

代表理事 3月のごあいさつ

トランプ現象の真意とは?

 今、アメリカの大統領選挙の注目すべきことは、トランプ候補の人気です。トランプが勝つ可能性が非常に出てきたということなのですが、トランプが候補者としてかなり乱暴なことを言っている。イスラムをアメリカに入れないとか、メキシコの移民を入れないとか。それから日本あるいは中国・韓国などを金食い虫みたいに、アメリカの国益を脅かしている存在であり、日本が核兵器を持って、アメリカの防衛負担を減らすべきだ、と、素人ではないと、言えないことまで公言しています。外交のことを全く知らないという印象を与えるのですが、逆にこういう人が人気が出ている現象を注目しなければなりません。クリントン候補にしても、オバマ大統領、あるいはその前のロムニー候補など色々なアメリカ指導者たちが常識のようにグローバリゼーションの立場に立って、そういう事が大統領になるための態度となっている。ところが、トランプは全くそうではない、あきらかに自国一辺倒の、床屋談義みたいなものを平気で出している、これは一体、何なのかということです。


 小国の大統領、首相のごあいさつなら気にする必要はないのですが、冷戦終結以後、大国はアメリカ一国になっている。中国やロシアも大国ずらをしてきたとはいえ、世界を関与する器ではない。そういう一極集中のアメリカで、大統領候補にこういう人が出てくるということが、かれらがこれまでの役割を抛棄したくてしょうがないということです。基本的には我々があまりにもアメリカに、その指導性を仰いでいたということと、国連があそこにあるために世界を指導していくという錯覚を持ってしまっていた。それから、アメリカは移民の国ですから、たくさんの世界からの移民が来ているために、あたかも世界の意見を、集約しているように思わされてきた。しかし現在の政治・経済で基本となっているグローバリゼーションに対し、トランプは「そうではない、アメリカだけを考えろ。アメリカだけを大国にしろ」というナショナリズムを出して来たのです。


 彼は不動産王と呼ばれて、豊かな金持ちだけの政治家という風に思わせているのですけれども、意外に一般にも受け、ヒスパニックあるいは黒人にまで支持する人も出てきている。これは一体何なのかということです。このことがある意味で世界情勢を反映しています。それは安倍首相の動向にも関係していることです。


 先ず言えることは、世界の情勢が一国主義、つまり〈ナショナリズム〉に向かっているということです。今までのグローバリゼーションの流れの中で、例えば EUが共同体になり、多くの国家を統合してしました。そしてユーロというお金で20数か国を経済的に統一してしまうという事をやってきたことは周知の通りです。それが20世紀後半の世界の趨勢だったのですけれども、今イギリスが脱退するかどうかという国民投票もかけています。つまり、各国が自分の国の方針で、お金をある意味で操作する、あるいは各国にあった政策をしようとすることが、多くの点でできなくなっていることなのです。ヨーロッパ各国がなにか全体的に縛られ、とくにドイツ支配に自分たちの国を委ねるような事態になっています。 EUそのものの制度の中でそれぞれの国の立場、国の状況というものを主張できなくなっていくということに苛立ちを感じ始めているのです。


 今、移民が非常に多く入ってきている。この移民というのも実を言うとグローバリゼーションの一角です。つまり世界はみな一国、あるいはひとつのナショナリズムではもたないように、多文化主義にする、という事を20世紀では心がけてきた。それの象徴としての移民政策だったから、どんどん入れろ、入れてもいいと言ってきた。本来はフランスやドイツそれぞれの国のナショナリズムが、その土地その国の歴史に基づく、政治や経済の運営が出来なくなっている。野放図に異質な移民を入れることによって、国内に不協和音が限界に達しているのです。異質なものを平気で受け入れていいのかということが深刻な問題になっています。現状ではそれぞれの国が、移民というのは少数派として扱っていますけれども、そうはいかないという状況が出てきた。特に移民が急速に入ってくるということによって、ナショナリズムが瓦解していくような感覚を各国民がもつようになったのです。


 だからこそトランプのような候補者が出てくる。各国のナショナリズム政党が躍進するようなことが出てきています。結局、今のEUというのはグローバリゼーションで作られた共同体です。さらにアジアも中国が、そういう事をやろうとしているわけで、共同出資の新しい銀行を作ろうとしている。グローバリゼーションというものを、中国がやり始めているというのは面白い現象です。それに対する日本は、唯一彼らのグローバリゼーションとは別の動きをしている。独特の政治制度を持っていて、あらゆる考え方あらゆる行動の仕方が全く異なっている。皆さんはそういうことがないようにと戦後教えられてきて、英語を学びなさい、権利を主張しなさい、個人を主張しなさいと言われてきた。しかしそうはなっていないのが、日本なのです。グローバリゼーション化はひとつも成功しなかった。


 そういうことが戦後、アメリカによって推進されてきたわけですが、実を言うとそれは、基本的に左翼ユダヤ人の仕業です。ユダヤ人たちというのは、個人主義化を徹底し、国家を超えた人間を作ろうとし、それを近代化の名の下に宣伝してきました。国家などは存在せず、国際社会しかなく、それを運営するのが個人でしかないという理論です。これがグローバリゼーションの名で全世界に流布し、共同体よりも先に置く。そういう人たちが実際は政治を動かしているし、ある意味で成功したといって良いでしょう。しかしそれが今、反動が広範囲に出てきているのです。


 今、イギリスもヨーロッパ各国も、それがどうもおかしいと思い始めている。頻発するテロ事件で、その反動が出てきている。やはり一国一国で、政治・経済を行う、ということが必要になってきた、トランプ現象はそれの表れです。トランプと言うことは、やはりアメリカは、アメリカ一国でやるべきだという事を主張しています。ですから結局、現代のインターナショナリズムあるいはグローバリズムに対する、ナショナリズムの主張をしないといけないと考えていることなのです。グローバリズム系の人たちはナショナリズムを主張すると戦争が起きると言うけれども、これは今や逆なのです。グローバル化から戦争が起き、あたかも第三次世界大戦があるかのごとく感じているのです。


 2001年の9・11テロ以後、戦争はテロで始まるという観念が生まれてしまいました。アメリカがあの後、イラク戦争をおこし、未だに関わっています。どうみてもアメリカのイスラエル・ユダヤ勢力がこれを引き起こしたとしか考えられませんが、いずれにせよ、テロリズムが盛んに現在でもおこなわれている。テロから戦争が起こることを政治家たちが言っている。しかし、なかなか戦争は起こらないのです。つまり各国民は、もう知っているのです。テロは起きても、戦争は起こさないと。戦争というのは、国民が動員されることです。もう誰も、グローバリゼーションにその戦争のモチベーションを持っていないのです。これこそが、現代の国際ユダヤ組織が間違っていることなのです。テロで戦争が起きる、宣伝すれば国民は動く。軍備に金を出し、軍事的な技術を高め、その補給関係をきちっとすれば、戦争になるだろう、と金融ユダヤ人が勝手に思ってきた。こう言うとユダヤ人たちは怒るかもしれませんが、彼らはそう動かざるを得ない、金をもっているが人口の少ない彼らの弱みなのです。ユダヤ人たちはいるようでいない、いないようでいるという存在の少数派ですから、その志向は仕方がないことです。


 そういう力で今までグローバリゼーションを進展させてきたのですけども、今はそうするべきではない、という事をトランプのような不動産屋が言い始めたことが興味深いのです。日本という国の経済は、韓国と違ってユダヤ資本に支配されていないのは、日本銀行の株は 55%は日本政府が持っているといった事が今生きてきているということです。そういう問題が全体的にグローバリゼーションとナショナリズムの葛藤の中で、彼らが日本がいかに変えていこうとするのか、を検討してゆきたいと思います。


 彼らの志向に引きずられない日本というものを、われわれはしっかりと持たなければならないということです。それが我々にとって「歴史をたどる」「歴史をしっかり認識する」という態度をもつことです。戦後、左翼的歴史観や思想的イデオロギーにまみれてしまった日本を取り戻すことをこの日本国史学会で目指してゆきたいと考えています。『反日的歴史認識を撃つ』(展転社)という著書が、今月8日に出ます。これはハーバード大学とか有名な歴史書、朝日新聞の推薦の歴史書などに対する本格的批判の書です。なかなか読みにくいと思われるかもしれませんけども、こうした有名な書物に、強い関心を誰かが持っていないと、いずれもベストセラーですから、国民の根本的な思想がやられてしまいます。歴史認識というのは、例えばハーバード大学とか、日本だと東京大学とか京都大学が書いている書物を批判しないと、マスコミなんかはそれを批判する力もイデオロギーも持っていない。NHKを含めたマスコミは、それを広めているだけです。 NHKの歴史番組を見ていますと、全部左翼学界の言っている意見を翻案しているだけなのです。あれを見ていると、いかにも戦後史観が反日的であるかがわかります。ですから、そういうことも含めて、われわれの活動が大事になってきます。

 

平成28年3月  当会代表理事/東北大学名誉教授 田中英道

 


 

代表理事 2月のごあいさつ

 まだ参加者はあまり数多くありませんけれども、日本国史学会の存在そのものが非常に重要であって、やはり歴史認識の問題を保守の側からきちっと言うというということ。それを少数でも学者としてきちっと展開していく。そういうことで東京では毎月の連続講演会が、関西でも毎年2回シンポジウムがあります。これから共同の研究会もしていきたいと思っています。

 

 それから基本的に我々の学会は、評論家の会ではありませんので、いちいち政治家のごあいさつを批判しあったりすることはありません。例えば今度のいわゆる従軍慰安婦の問題で安倍首相が変に妥協したというようなことを、あれはおかしなことだ、あるいはああいう妥結をしたのが良いというどっちの立場をとるのがいいのかということは、それ自体問題の立て方がおかしいのです。当然、戦後70年のあの問題も保守の側で分裂しておりまして、あれを批判する人と、あれはあれでいいという人と、いろいろあります。メディア等でいちいち取り上げられるということで、政治家のごあいさつというのはやはり、できるだけ批判されないような無難な、あるいは曖昧な言葉を使って、ある時にはそっちの側に有利なこと、ある時にはこっちの側に有利なことをと、綯い交ぜて話す。そういう事を官僚が平気でやってそれを読みますから、いちいち取り立てて言う必要はない。しかしその政治家がどういう風に政治問題に処していくか、特に憲法問題あるいは日本の歴史そのものをどういう風に捉えるかについてきちんと考えることが勿論必要だと思います。 ですから評論家たちは、これまでも間違えるのです。この政治家は良い、なんて言って持ち上げたと思えば、そのあと全然ダメだ、と。例えば、小沢一郎という政治家をある保守系評論家が一度持ち上げて、あとで全然ダメだと言ったことがありましたね。そういうことをやっていますと、評論家はいつも怒ってばかりになる。そういうことをわれわれはやらない、しかし筋が通っていればいいという事ですね。その状況をどういう風に掴んでいくかということが、その政治家の行動によってはっきり出ているということが大事である。その点において安倍首相は非常にまだまだ我々の政治家であるということを私は信じています。

 

 それから我々は文化というか、いわゆる歴史認識を、階級闘争史観あるいはマルクス主義史観と言ったものではない事で歴史を捉えようとしている。そういう動きをわれわれはしているわけです。そういう意味でも、安倍首相の今度の施政方針演説にもそういうものが含まれていたということ私は認識しております。いずれしても、良い場合はそれを支持し、ちょっとおかしい場合は黙っているか、あるいは非常におかしくなれば批判するという、是々非々主義でいくべきだろうと思います。

 

 最近非常に重要なのは、ドイツの動きが変わってきたということです。これは皆さんご存じの『我が闘争』、これがやっとドイツで発禁処分が解けてドイツ語で新たに出たということです。それともう一つはハイデッガーの『黒ノート』というのが2年前に発禁処分が解けたということです。ハイデッガーは20世紀最大の哲学者の1人ですけれども、この人以降はドイツから大哲学者が出なくなっちゃったんです。それはどういうことかというと、ハイデッガーがナチを支持したということがあって、戦後それで叩かれたわけです。特に1980年頃からそれがひどかったわけですが、しかしやっとそのことを公にして『黒ノート』が出た。この『黒ノート』で非常に重要な事は、「近代」という言葉、あるいは「世界」と言う言葉をユダヤ人の問題としたわけです。ハイデッガーには“反ユダヤ主義”というレッテルが貼られたわけですけども、この問題を堂々と論じています。ユダヤっていうのは何かというと、世界を描いていること。つまりマルクスもユダヤ人ですし、資本主義も国際ユダヤ人組織だということを平気で言うわけです。知識人がこういう言葉を、ただの人種差別ではなくて言うところが非常に重要であって、結局「近代」も資本主義もお金の至上主義になったということです。お金というもの、経済至上主義ということも全部ユダヤから来ているということをはっきり述べているわけです。ところが、この国際ユダヤ人組織というのが何かということは言わない。言わないというよりも、言えないようにしているということをはっきり言っている。ですから、そういうユダヤ人のあり方の実態をハイデガーが非常に掴んでいたというのがよくわかる。だから決して彼をナチに加担した哲学者と見るのではなくて、今や世界がユダヤ人の問題を抜きにしては語れないし、シオニズムを攻撃しているわけです。

 

 軍国主義という言葉がいかに作られたか、それから歴史書で天皇を語らないという状況がいかに作られたかということ。そういうユダヤ人が作った戦後日本の一つの言語構造というのを、今もう一度洗い出して、そしてそれに対抗する言論を展開してゆく。そしてそれについては、実はユダヤ人ももう許している。『我が闘争』や『黒ノート』の解禁も、皆それを示しているんです。

 

 ですから、いわゆるGHQ禁書の開封というのもある意味同じことです。これも、世界的にユダヤ人が許したということなのです。ハイデッガーがちゃんと言っている国際ユダヤ人組織という問題があるという事は、しかしはっきりと誰それとか認識できないような構造になっているわけです。そういう事は、実を言うとローマ時代からあったということを私も解明しつつあるわけです。私は今、ローマで仏教美術展をやるために時々ローマに行っているのですが、ローマで調査しているのもそういうことです。ですからマクニールの世界史とかアメリカ人が書く世界史、あるいは各歴史がある意味全部色メガネで見られていて、そういうことを全部隠している歴史なのではということを我々は認識しなきゃいけない。ですからマルクスもまた、同じようにユダヤ人の見方で書いているわけです。そういうことが今、徐々にわかってきているということです。

 

 ですから日本の歴史を書き換えるのも、そういう立場で書き換える必要がある。ですから単に保守だからといって戦前に帰れとか天皇主義に戻れ、みたいなことだけではなくて、そういうことも検討しなくちゃいけない。やはり「近代」というものが、作り物であったということ。個人主義だ、自由だ、平等だという言葉がいかに彼らによって作られて、皆さんが信じさせられたかという問題――こういう事を再検証する必要があるだろうと思います。

 

 そういうことで、ハイデッガーの『黒ノート』の解禁は私にとっては事件であるし、それを考察することが非常に重要であることだろうと思います。それは日本の問題でもあります。ハイデッガーはギリシャの問題だと言っていますけども、我々にとっては『古事記』や『日本書紀』あるいは縄文弥生の問題をどういう風に理解するかという事にかかっているだろと思います。

 

 

 今月初めまで外務省の出張で、ローマに行って来ました。今年の八月にキルナーレ宮美術館で開催される日本仏教彫刻展のためで、白鳳時代から鎌倉時代までの四十点ほどの国宝、重要文化財の彫刻が展覧されることになっています。流石に最高傑作は保存の関係で行きませんが、各地のかなりの美術作品が、ミケランジェロやドナテルロの国、イタリアで初めて展示されるのです。文化庁も予算のないところ、安倍首相がレンツイ首相に日伊修好百五十周年のために特別の予算をつけて下さり、開催する運びとなりました。嬉しい事です。

 

 日本国史学会のそのものが、マルクス主義の闘争史観を否定して、伝統と文化を重んじる歴史観を標榜していますので、そのためにもこうした文化的国際行事は大きな刺激となると思います。国際的に日本の伝統文化が評価される起因となるでしょう。

 

 安倍首相が新年の施政方針演説で、日本の文化と芸術の世界への発信を称えておりました。文化の高い日本を評価する歴史観を、政治に反映させようとするわれわれの努力がそこに反映していると考えます。首相の友人である俳優の津川雅彦さんが産経新聞のインタビューに、安倍内閣の文化外交を述べ、このローマの仏教美術展が皮切りだと述べていました。実を言うと、それはわれわれの主張してきた事だったのです。津川氏は私の友人でもあり、本学会の理事の竹田先生の知己でもあります。

 

 日本国史学会にとって、むろん日本の近現代史も重要で、その新たな資料を発掘しながら、歴史の解釈を変えてゆくのも我々の使命です。しかし基本的に学会は、評論家の会ではありませんので、いちいち政治家のごあいさつを批判したりすることは必要ありません。例えば今度のいわゆる従軍慰安婦の問題で、安倍首相が韓国と変に妥協したことを批判する向きもあります。あれはアメリカの差し金だ、おかしなことだ、という評論家がいますが、政治とはそんなものです。いちいち目くじらを立てる必要はありません。韓国が誤って、中国ににじり寄ったことへの批判が高まったからです。

 

 戦後七十年を記念したあの「安倍談話」の理解も保守の側で分裂しております。批判する人と、あれはあれでいいという人と、いろいろあります。しかしメディア等から、いちいち問われるために、すぐさま態度を取らなければならない評論家と、我々は異なるのです。時の政治家のごあいさつというのはやはり、できるだけ野党に批判されないような無難な、あるいは曖昧な言葉を使って、ある時にはそっちの側に有利なこと、ある時にはこっちの側に有利なことをと、綯い交ぜて話す。そういう事を官僚が書いてそれを読みますから、いちいち取り立てて言うに値しないのです。問題はその政治家の原則的な態度です。安倍首相は教育基本法を改正し、憲法を変えようとしています。そして「戦後レジームの脱却」を掲げ、靖國神社にも参拝しました。村山談話や河野談話を否定してないのは残念ですが、それでも野党と一緒になって批判する必要はありません。

 

 ですから評論家たちは、これまでも間違えてきたのです。この政治家は良い、と持ち上げたと思えば、そのあと全然ダメだ、という。例えば、小沢一郎という政治家をある保守系評論家が持ち上げて、あとで全然ダメだと言う。もともと駄目なのです。田中真紀子についてさえ、そんなことを言っていた評論家がいた。そういうことをやっていますと、評論家は不信感を持たれます。そんなことはわれわれはやらない、妥協も政治家にとってはひとつの選択です。私たち歴史家は、どこか裏がある、と考えます。その裏を察知しながら、その政治家を判断しなければならない。 その点において安倍首相は政治家としてよくやっている、と私は考えています。

 

 

 最近私が注目した事に、ドイツで、ヒットラーの『我が闘争』が、やっとドイツで発禁処分が解けて新たに出版されたということがあります。たちまちベストセラーになったと言いますが、もっともなことです。それともう一つはハイデッガーの『黒ノート』というのが発表されたことに注目しました。

 

 ハイデガーはご存じのように、 二十世紀最大の哲学者の一人で、この人以後は、ドイツから大哲学者が出なくなったと言っても良いでしょう。ハイデガーがナチを支持したということがあって、戦後それで叩かれたわけです。それでこの『黒ノート』を出さなかったと言います。しかしやっとそれが出版されたのです。

 

 この『黒ノート』で重要な事は、ユダヤ人問題が「近代」の「裏」にあることをはっきり述べていることです。彼ら「世界ユダヤ人組織」 がそれをイデオロギーとしてつくり、経済一辺倒の世界を形成した、というのです。彼らはその思考に「世界を欠いている」と言います。彼らはディアスポラ(逃散)ですから当然そういう発想になる。つまり根源を欠いている。そして近代の「計算的思考」しかないと言うことです。そこに「破壊の原理」を持っている、と。ハイデガーには「反ユダヤ主義」というレッテルが貼られたわけですけども、この問題は決してユダヤ人への偏見や憎悪とは関係がない。かれらの歴史的な背景からの性格を哲学的に捉えているのです。これはユダヤ人でさえも認めざるを得ないでしょう。

 

 ただ、この「世界ユダヤ人組織」というのが何かということは言わない。言えないと言ってよいでしょう。しかし「近代性」とやらは、 ユダヤ人の問題を抜きにしては語れないことを言っているのです。マルクスもまた、同じようにユダヤ人の見方で「世界を欠いた」ディアスポラの態度で 書いていたわけです。そういうことがハイデガーの『黒ノート』でわかってきた、’ということです。逆にユダヤ人思想家、アドルノは、ドイツ人ハイデガーの「根源性」を、ナチズム=ファッシズムとして論難していたのです。 ですから日本の歴史を書き換えるのも、そういう近現代史の裏にある組織があって、それが左右してきたことを指摘しながら、行わなければなりません。ただアメリカがやった、アメリカに従属している、などと簡単に言ってはいけません。この「世界ユダヤ人組織」が隠然として作用しているのです。やはり「近代」というものが、作り物であったということ。個人主義だ、自由だ、平等だ、民主主義だ、という言葉がいかに彼らによって作られて、皆さんが信じさせられたかという問題――こういう事を再検証する必要があるだろうと思います。

 

 ハイデッガーの『黒ノート』の解禁は、日本の問題でもあります。ひたすら「近代性」を夢見てきた日本。そこには「破壊の原理」が裏にある。ハイデッガーが「根源」をギリシャにおいているように、日本は『古事記』『日本書紀』の縄文・弥生・古墳時代に遡らなければならない。我々にとっては戦後否定されたそうした遠い過去からの呼び声を、もう一度、多くの考古学的な発見を考慮しながら、その歴史を回復させなければなりません

 

平成28年2月6日  当会代表理事/東北大学名誉教授 田中英道

 


 

代表理事 1月のごあいさつ

 御存知のように安倍政権が、韓国との妥協のようなことをして、「従軍慰安婦」問題が解決済みみたいな格好にしようとしました。朝日新聞でさえ否定した「従軍慰安婦」の問題が、あたかも肯定されたかのように韓国には報道されています。この問題だけでなく、70年談話もそうですが、政治家の談話、あるいは発言は、ある意味で妥協の産物のようで、例えば村山談話とか河野談話などが、あたかも現政府が認めたかにさえ聞こえます。これは、厳密に言えば全くおかしなことですが、政治家の世界ではまかり通ってしまうことなのです。我々近現代の歴史家からは、一つ一つ一貫しないと、非難すべきことになる。そんなことばかりです。

 

 しかし、政治というもの、また外交というものが、ある面で妥協の取引で成り立っている時には、その内容をいちいち非難していても、我々は疲弊するだけです。そのことを考慮してある意味で沈黙することも、一つの処し方だろうと思います。政治評論、経済評論がいちいち具体的なことに対応するということに対して、我々歴史家は、ひとつ現実から引いて、ことの真実が何かという問題、そのことを我々が問うていく。そういう基礎的な事をしっかりと進めていくことが必要だと思います。いちいち時評的なことに対応していると、無力感に陥ることは必至です。どこに何が動いていくか一歩引いて、把握することが肝心です。

 

 何かあるたびに、いちいち対応してインターネットにしがみついている人がいますけれども、腹だけ立って、無駄な議論をすることになるわけです。しかし、それよりも我々は、現代のことでさえも歴史の中に沈んでいる事実を見定めて、自分たちで解明してしないといけない。その重要なことを一体誰がやるかという問題です。外務省とか役人たちの研究機関があるかというと必ずしもやっていない。やはり民間で、学者がこれまでの蓄積やいろいろな意味での学問的な視点をもとに研究をし、それによって論文という形で将来残すように、論理的に表明していく、研究を出していくことが必要だろうと思います。一言つけ加えれば新聞・雑誌の時評家の本はいかに多く出されても、明日は消えてゆきます。また、政治家・役人がやることには、ひとつの限界があるし、秘密をさらに秘密にしてしまうということがありうるわけです。

 

 新年第1回目の連続講演会で取り上げました原爆の問題でも、やはり本当に分かっていない部分があって、表面的な事実はウィキペディア等に書いてありますけれども、そうじゃない部分の割合が大きいわけです。そういうところを解明していくことが我々の役目だろうと思います。

 

 今マグロウヒル社の教科書問題が生じて、そこでいわゆる「従軍慰安婦」の問題が異常に取り上げられて教科書に載っています。これはやはり徹底的にやらなければなりません。やはり英語でやるということを恐れずどんどんやらないといけない。これは私たちもそのつもりで居りますから、日本国史学会が独自の取り組みをする必要があるだろうと思います。そして、従軍慰安婦にしても南京虐殺にしても、今目にしている嘘の情報に、我々がどのように対処するか。嘘がまかり通っている時に、われわれはどういう風に、立ち会ってゆくか。捏造の情報が蔓延し始めているということを我々が目の当たりにしているというところで、どういう風な態度を取るべきか。それを考えていきたいと思っています。

 

 今年もよろしくお願いします。


平成28年1月16日  当会代表理事/東北大学名誉教授 田中英道